2022-01-01から1年間の記事一覧
井上ひさしさんは2010年に亡くなった。それから12年。この本は未発表のエッセイを没後10年にまとめたもの。ひさしさんの本はたいてい読んできたが、このように、ぼくにとって新しい文章をいまだに読めることはとてもうれしい。 「この天つちに 溢れることば …
イエスの言動やその意味を探求したり、旧約聖書の中にイスラエルの神学思想史を追ったり、そういう書物はおもしろい。ストーリーがあるからだ。 けれども、この本にはそれが欠ける。人が何を考えて何をしたのかが描かれていない。1世紀から4世紀までのキリス…
広島の山地に移住して農業に取り組んでいる友人らと「農の神学研究会」を立ち上げた。といっても、数人のZOOM会議である。 その寄り合いで「農の神学」とは何か、「農」とは何か、とあれこれ言っているのだが、これまた「農」に関わる知人から、本書を紹介さ…
著者の武田さんは浄土真宗の住職なのですが、この方の書いていることは、一宗教、一宗派の特徴というよりも、言ってみれば、宗教そのものというか、世界そのものであると思います。 だから、この本は「「宗教」観の解体」と言ってもよいでしょう。「宗教」の…
著者の最新刊(たぶん)「力と交換様式」を読んでいたら、本書の名前が出てきて、ぼくは、「柳田国男と山人」という言葉に飛びつきました。とくに「山人」に。 というのは、30年以上前、田舎の実家で民俗学の本を読んでいたら柳田の山人という概念が出てきて…
宗教学の学びになるかと思い、入手しました。もともと日本語で書かれた論文(?)、外国語から訳されたもの論文(「論文」だと思うが・・・)、どちらも、わたしには、難しくて、読み難かったです。 また、本書全体がどういうテーマなのかも、よくわかりませ…
「一つの性が一つの集合体として、他方の性からの不利な取り扱いを余儀なくされているのは人類のみである」(「文化としての性差(M・ミード)」、井上眞理子)。 これは、性の二分法に基づいた言い方だから、「ある性が一つの集合体として、他の性から不利な…
「私は わたしに/生まれたのだから/必死になって わたしに/ならなくてはならない」(「私がわたしに出会う旅」、p.6)。 「私」と「わたし」はどう違うのだろうか。 「優れた/人材になる前に/まず/人間に/ならねばならない」(「禁忌」、p.89)。 「人…
なぜ、この本を読んだのか。ぼくはキリスト教にかなり深く浸かっているのに、トマス・アクィナスの「神学大全」は手にしたことがない。こちらの方が読みやすそうだ、ということがひとつ。 もうひとつは、「男はつらいよ」の映画全作連続鑑賞の二回目をこの夏…
井上ひさしの小説、芝居は、ほとんど読んだ。2010年の彼の死後も、未完の小説なども含む作品の出版が相次いだ。並行して、井上ひさしを論じる本もいくつか出版された。 けれども、そういう数年が過ぎてからは、井上ひさしの書いたものや井上ひさしについて書…
「利他」と聞くと、他者を利する、人に良いことをすることだと思う人もいるでしょう。押し付けがましいというニュアンスも込めて、ああ、道徳のお話しなのだ、と感じる人もいるでしょう。 しかし、本書によれば、道徳とは、こういう良いことをしましょう、と…
エネルギーと言えば、石油や電力を思い浮かべるが、この本に出て来る内外のいくつかの街では、製材業の副産物である木片を燃やすことで暖房、調理用の熱を得ている。里山はその木材の供給地である。 市場を独占する大企業に依存せずに、生活に必要なものを手…
先輩宗教人の紹介で武田さんの本を読むようになりました。武田さんは、因速寺の住職ですが、キリスト教会の牧師のわたしが最近喜びをもって読む書き手のひとりです。彼の本は、宗教書とも哲学書とも思想書とも呼べるでしょうし、世界観の書と言ってもよいで…
「主の祈り」とは、新約聖書の福音書において、イエスが教えたとされる祈りのことです。キリスト教の礼拝でも毎週唱えられています。けれども、本書では、この祈りが、多くのキリスト教徒が持つイメージとは、かなり違う姿で描かれています。 たとえば、「主…
人は、世界の根源、永遠なるもの、目に見えないもの、奥底にあるもの、超越者、あるいは、神と呼ぼうと、それに触れた時、それをどのように表現するのだろうか。この本にはそのいくつかの道が紹介されている。 高村光太郎が「作る蝉は、岩手の山を飛ぶ蝉であ…
21世紀に入ってからの「浄化」により一変したというが、沖縄にはいくつもの売春街が存在した。これは文庫本450頁にわたるそのルポルタージュである。 日本中、世界中の売春街には歴史があり出現した背景があるはずだが、沖縄ではどうだったのか。 「凄絶な地…
旧約聖書学者の大島力さんが、街の教会の礼拝でした説教集。さりげなく学問的成果が散りばめられていますが、難しくはなく、むしろ、神の愛がやさしく伝わってきます。 出エジプト記三章二節に「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」とあります。大島…
アジア諸国への、そして、沖縄への、日本は加害国であり、その「国民」であるぼくは加害者である。沖縄の前に立つとき、ぼくはこの考えから離れることはできない。 「大江健三郎さんのように、大げさに言うと沖縄に足を向けられないというか、贖罪意識を背負…
誤読ノート679 「今は時間の通過点か、それとも、頂点か」 「親鸞抄」(武田定光、ぷねうま舎、2013年) わたしたちは過去を思い出し、未来を想像する。けれども、思い出し、想像するのは、いつも今だ。思い出す時、時計の針が過去に戻っているわけではない…
町の教会の教職を辞めて、今は、広島の山地で農に取り組んで、神学的な営みを続けている友人がある。その友人の主催するZOOMトークで、荒川純太郎さんを拝見した。 名前は知っていた。アジアの農と関わってきた人だと聞いていた。ぼくは農村伝道神学校の非常…
十代のころ、何気なく、テレビの高校野球を観ていると、父が「この桜美林というのはオベリンという人の名前から来ているんだ」と教えてくれたことがある。 五十才前後のことだろうか、桜美林大学の礼拝で説教を、と一度だけ呼んでいただいたことがある。 何…
デニーさんはぼくより一歳上だ。だから、この本に出てくること、とくに音楽シーンは、まったく知らないわけではない。その点は、親しみを覚えながら、興味深く読むことができた。 けれども、戦場とされた沖縄、米軍、ミックスルーツ、沖縄の政治など、ぼくに…
誤読ノート675 「宗教ではなく超越を信じる者たちの学(ことば)」 「世界神学をめざして 信仰と宗教学の対話」(ウィルフレッド・キャントウェル・スミス、2020年、明石書店) 「究極的には、存在する唯一の共同体は、私が真に所属すると知っているもの、つ…
能の登場人物である卒塔婆小町を、カントやボンヘッファーと比べることで、「良心」を考察する力作。 「カントやボンヘッファーの飛躍は、特定の局面における主体性の断念であるのに対して、小町の跳躍は、主体性の行使」(p.144)。 「人間は、常に自らの良心…
キリスト教には4世紀ごろから唱えられている「使徒信条」というものがあります。キリスト教の信仰を簡潔にまとめたものですが、このように結ばれています。 「からだの復活、永遠のいのちを信じます」 若松さんのこの本のタイトルにある「亡き者」は「死者」…
若松英輔さんがこう記している。「チェーホフもまた、「神なき神秘家」と呼ぶにふさわしい人物だった。彼は「神」を語らない。しかし、「世界に遍在する一つの霊魂」(『かもめ』)を信じていた。人間もまた、その霊魂の一部である」(若松英輔、「亡き者たち…
「生きとし生けるもの、つまり衆生はそれぞれ一つひとつの生命体ではない。阿弥陀仏として一つの大きな生命体である」(p.31)。 葉っぱのフレディもそれ一枚の生命体ではない。楓という生命体の現れである。いや、楓は阿弥陀仏、つまり、世界大の生命体の比喩…
山我哲雄さんの旧約論文集。しかし、そんなに難しくもない。 「旧約聖書における自然と人間」「旧約聖書とユダヤ教における食物規定」「旧約聖書における「平和(シャーローム)」の概念」「ナタン預言の成立」「申命記史家(たち)の王朝神学」の五編が収め…
映画「男はつらいよ」シリーズ全50作を、ぼくは二回通して観ている。一度目は、二年前、心が死を味わっているさなかで、救いを求め、iPadを買い、寝転がって、一か月で観た。二度目はこの夏、やはり、前回と同じタブレットで、冷房を利かせた小さな自室で。 …