694「会衆ではなくキリストに説教する」 ・・・ 「「死」観の解体」(武田定光、因速寺出版、2022年)

 著者の武田さんは浄土真宗の住職なのですが、この方の書いていることは、一宗教、一宗派の特徴というよりも、言ってみれば、宗教そのものというか、世界そのものであると思います。

 

 だから、この本は「「宗教」観の解体」と言ってもよいでしょう。「宗教」の真理を書いているのではありません。「宗教」の真理を「解体」しているのです。というか、解体されているのです。阿弥陀さんによって。こうでもなければ、そうでもない、その問い自体がそうではない、という解体、否定という形でしか、世界の真理には接近しようがないのです。

 

 「とりとめのない話は、その底に流れている通奏低音から生れてくるからだ。取り留めのないというのは、自分が意志的に、このことを話そうとするものではないので、逆に、深層に眠っているものが自ずと表に飛び出してくる」(p.3)。

 

 これは、お寺の「法話」のことですが、ぼくもキリスト教会で説教というものを千五百回くらいやってきました。ところが、話の筋道とか、わかりやすさとか、知識の調べとか、例話とかを準備して、原稿まで作ってしまい、それを読むので、取り留めがありすぎて、意志的すぎて、このことを話そうと思い過ぎていて、深層に眠っているものがまったく出てこない、閉じ込められてしまっているのだと思い知らされました。

 

 準備した原稿が説教の最中に解体されるとよいのでしょうが、そうすると、一言も話せなくなってしまうのではないかという恐れがあります。

 

 「「思い」はなんでも済んだことにするのです。・・・という「思い」が浮かんできたことを固定化してしまい、それを「問う」ということをしません。まあ「思い」の固定化を私は「過去形にする」と言うのです。もうわかったことにして済ましてしまう。その固定化に揺さぶりをかけてくるのが阿弥陀さんですね」(p.11)。

 

 説教の原稿は説教の最中には、もう固定化された過去形なのですね。それが聖霊によって解体されるのがよいのでしょう。

 

 「阿弥陀さんとは、ことごとく人間を問いかえして下さるはたらきなので、〈反問性〉と名付けたのです。人間に決して結論を与えないのです。生きている限り問い返す。どこまでも問い返して下さる」(p.14)。

 

 キリスト教の神もキリストも聖霊もことごとく問い返してくださいますが、原稿を用意している時間帯だけしか、ぼくはそれを受け入れていないと思います。原稿を書くプロセスでは問い返される、前に説教をしたことがある聖書箇所でも問い返される、それは可能だし当為でありましょう。

 

 では、説教中はどうか。ぼくのような精神の作用と表現が遅い人間は、説教の最中に、キリストから問い返されて、はっとして、それをその場で表現することは難しいです。ただ、原稿のマイナーチェンジや、即興を少しだけ挿入することは可能かもしれません。

 

 「お勤めは大事なものだと思いますね。人間の、言ってみれば「分からない」という世界に「タマシイ」を開く手順なのでしょう。お勤めは漢字の羅列を大きな声で読むのですね。どうもあの時間は、経文の意味を考えてはいけない時間帯かもしれません・・・これは法話をいただく前に、私たちの意識が深層へ降りていくための、一つの手続きなのかもしれないです」(p.21)。

 

 キリスト教会の礼拝で言えば、聖書朗読やそれに基づく説教の前に、讃美歌を歌うことに通じるかもしれません。その場合、讃美歌の歌詞よりも、曲に「タマシイ」を委ねていくべきなのかもしれませんね。

 

 「「法話」はタマシイが阿弥陀さんの方に向かって発語するのです。「画面の外」に向かってね。その言葉が阿弥陀さんから跳ね返ってきたとき・・・聴衆に届くことがあるのです・・・話し手は人間の言葉でしゃべるけれども、それが阿弥陀様にぶつかって反射され・・・聴衆に届くのです。「法話」は人間が人間に向かって、直接関わることではないのです」(p.136)。

 

 井上ひさしさんが「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと」と言っていて、ぼくは、「やさしく」と「ゆかいに」だけは心がけています。つまり、ひとりよがりにならず、聞き手に聞きやすく、ということなのですが、しかし、そこには、聞き手に聞かせようというぼくの欲望があって、聞き手の自由や、語り手と聴き手の相互作用を妨げているのかもしれません。

 

 聞き手の方を向かずに話したいことを話したいように話す。いや、聞き手をじっと見て聞き手にわかりやすくわかりやすいことだけを話す。この両者の間にあるのが、阿弥陀さんに向かって話す、キリストに向かって話す、ということがあるのかも知れません。

 

 キリストに向かって話したら、ぼくの固定された言葉が解体され、過去の言葉が解体され、現在の言葉に復活し、聞き手にキリストの言葉として届くのかもしれません。

 

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