なぜ、この本を読んだのか。ぼくはキリスト教にかなり深く浸かっているのに、トマス・アクィナスの「神学大全」は手にしたことがない。こちらの方が読みやすそうだ、ということがひとつ。
もうひとつは、「男はつらいよ」の映画全作連続鑑賞の二回目をこの夏、果たしたからだ。
前書きで、監修者は、寅さんシリーズは「貴種流離譚」だと言う。もっとも、寅さんは「貴種」ではない。「ごくフツーの家に生まれた烏滸な男が、つまらないことで本郷を離れて流浪し、たいした苦難もないままにむやみに女性に惚れたりして一向に向上もせず、なすところなく本郷へ帰って、またそこで悶着を引き起こす物語」
寅さんと言えば、マドンナ。光本幸子、池内淳子、太地喜和子、音無美紀子、竹下景子(住職の娘、獣医の娘、ウィーンのガイド)などが良い。
それから、志村喬がやった博の父親、吉田義夫がやった座長、宇野重吉の日本画家も良い。
「寅さんは、睡眠時間を非常に多く必要とする体質である。とらやでの夕食時、自分の話がひと通り終わると「今日はこの辺でお開きということにして」と席を立ち、サッサと寝てしまう」(p.92)。
井上ユリさんによると、井上ひさしも寝ないと頭が動かないのでよく寝ていたそうだ。徹夜で原稿を書くイメージがあるけど。
寅さんの売りの口上について。「なによりもまず、通行人の足をことばの力だけで止まらせ、二に、その通行人を言葉の魔力によって自分の前まで引き寄せてこなくてはならない。三に、インチキすれすれのイカサマモノをことばの限りをつくしてマットウな品物に装わなければならない。四に、買った客が「こんな仕方のないものを買わされて、だまされた」と気づいても、「でも、あんなおもしろいタンカが聞けたのだから、ま、よしとしなくちゃ」と笑って諦めてくれるような、立派で、かつ娯楽性に富んだ話術でなければならない」(p.180)。
これは監修者自らの執筆。これは、いわば、井上ひさしの芝居や小説そのものではなかろうか。井上作品のメッセージ、思想を「インチキすれすれのイカサマモノ」とは思わないが、彼は、芝居は趣向がほとんど、思想はほんの少しでよい、というようなことを言っている。一点のメッセージを伝えるための趣向。寅さんの口上に通じる。
ついでに言えば、教会の牧師さんの説教にも、こういうものがあっても良いのではないか。なじみのない人は、キリスト教なんてそれこそ「インチキ、イカサマ」という警戒心を抱いている。その人にワンポイントを伝えるには、99の趣向が必要かもしれない。
しかし、それは、自分を宣伝するための言葉ではない。「「世界は、自分自身の問題についてモノローグしたい人たちばかりでできている」(フリチョフ・ハフト)のであるが、寅次郎氏だけは、この自分勝手なモノローグ病から抜け出している。いま流行の言い方をすれば、寅次郎氏の言葉はさわやかなまでに広く大きく世界に向かって「開かれている」のだ。そしてそういう寅次郎氏のことばを聞く楽しみのために、さらに氏の言葉に励まされたいと願って、僕等はせっせと映画館に通うのである」(p.181)。これも井上ひさし。
僕等は、モノローグではない「開かれている」説教ができるだろうか。