アジア諸国への、そして、沖縄への、日本は加害国であり、その「国民」であるぼくは加害者である。沖縄の前に立つとき、ぼくはこの考えから離れることはできない。
「大江健三郎さんのように、大げさに言うと沖縄に足を向けられないというか、贖罪意識を背負って来る知識人もまだまだ少なくないようですね」(p.163)。
贖罪意識とは、罪滅ぼしの意識のことだろうか。日本は沖縄に対して大罪を犯した、それを少しでも埋め合わせたい、ということだろうか。埋め合わせなどはできない。ならば、せめて、加害者であることを深く認識しつづける、ということだろうか。
「「日本」側からの多くのレポートには沖縄を政治的観点だけでとらえる傾向が強かったり、理念や観念だけで沖縄戦の加害者である「日本」をつきつめる――それは重要なことなのだが――ものが多く、街の底辺に落ちているような声を凝視することがきわめて少なかった」(p.220)。
たしかに、藤井さんのルポ、たとえば「沖縄アンダーグラウンド」は、ある種の社会学者のするような小難しい「理念や観念」の羅列ではない。そこに生活する人びとの声、語りの録音、再生だ(ここに、「理念」がないという意味ではない)。そこから、加害者である「日本」が浮かび上がってくる。
しかし、ぼくは、沖縄戦の加害側の人間である、という理念、観念を捨てることはできない。ただし、それが机上の空論、理念遊びにならないようにしたい。だから、できるだけ沖縄を訪ねたい。何かをするというよりも、沖縄の空気を吸いたい。
「沖縄の歴史を辿り、いまも押しつけられている「分断」をあらために思う。不条理に覆われている島といったらいいだろう。そのことを無意識にしながら「沖縄」を消費している我々とはいったい何ものなのだろう」(p.315)。
「沖縄」を消費する、とはどういうことか。沖縄観光で「癒される」ことか。沖縄を材料に加害者であることの認識を深めることか。
いずれにせよ、「消費してしまっている」という反省は、「理念だけ」ではなく「ひとつの理念」ではなかろうか。