「生きとし生けるもの、つまり衆生はそれぞれ一つひとつの生命体ではない。阿弥陀仏として一つの大きな生命体である」(p.31)。
葉っぱのフレディもそれ一枚の生命体ではない。楓という生命体の現れである。いや、楓は阿弥陀仏、つまり、世界大の生命体の比喩、フレディは一人の人間の比喩である。
生命体と言っても有機物とは限らない。有機も無機も物質も非物質も、霊も心も精神もすべてを包むものだ。
「大宇宙には生命体はたった一つだけ存在する。大宇宙のすべてをすっぽりと包み込む、阿弥陀仏というたった一つの生命体である。われわれが普通、生命体だとみなしているたくさんの生物学的生命体は阿弥陀仏の命の営みの現れで、葉っぱが楓の木の命の営みであるようなものである」(p.31)。
「私は阿弥陀仏の命の営みの現れである・・・親鸞から学んだのはそういうことである・・・これを「信を得た」と言うのだと思う」(p.105)。
「浄土真宗で言う「信じる」とは、阿弥陀仏と私の関係を了解して納得することである」(p.108)。
しかし、それは人間にしかできない。「この世に、カエルや魚として生まれている間に「信を得ろ」と言っても、それは到底かなわない。牛や馬に「念仏せよ」と訴えても到底届かない。それこそ「馬の耳に念仏」である。もし信を得ることができるとしたら、それは人間としてこの世に生を享けている間以外あり得ない」(p.219)。
では、人間である間に信を得られなかった者はどうなるのか。「信を得なくてもそれでよいのである。信を得ていない衆生もすでに救われている。それ以外、信を得ない衆生が信を得ずにいることのできる道はない。世に信を得ずにいる衆生が無尽蔵にいるのはそのためである」(p.171)。
これはどういうことか。衆生(しゅじょう)は皆すでに救われているのだが、それに気づくことができるのは、つまり、信を得ることができるのは、人間でいる間だけだ、ということだろうか。
けれども、それは、人間として、あるいは、人間の言語で信を得ることができるのは人間でいる間だけだ、ということなのかもしれない、と考えた。
カエルはカエルとして、カエルの言語で信を得ている、いやカエルの鳴き声で念仏している可能性はないのだろうか。カエルの歌が念仏である可能性はないのだろうか。いずれにせよ、それらも、阿弥陀仏の生命体活動の現れなのではなかろうか。