著者は、地球の生態系危機を警告する一方で、それを克服する希望も示す。
地球の水、空気、土は、ひたすら「成長」を目指す産業、企業によって、収奪され、汚染されている。これはかなり前からすでに言われてきた。しかし、かつては公害はある意味地域的なものだったが、21世紀に入ってから、破壊は加速し、地球の生命全体がいまや壊滅的な危機にある。
どうすればよいのか。著者によれば、レジリエンスである。Resilience 辞書には、「回復力」「弾性(しなやかさ)」とある。
けれども、本書で言うレジリエンスは元に戻す、戻ることではない。では、何か。「訳者あとがき」にはこうある。
「レジリエンスとは、何か問題が生じたときに、元の状態に素早く戻る能力ではない。あらゆるものの関係は動的であり、時間の経過とさまざまな出来事の発生によって、状況は刻々と変わっているからだ。レジリエンスとは、ただ主導権を取り戻すだけではなく、以前とは異なる水準で適応し、自分の居場所を確立する能力を意味する」(p.425)。
地球でレジリエンスが発揮されるには、「人間は各自が自律性のある主体、いわば、自己完結型の自分だけの島ではなく、地球の生物圏に組み込まれ、さまざまな相互作用のつながりの中で生きている」(p.426)という認識が必要である。
この「生物圏への組み込み」「さまざまな相互作用のつながり」は、著者が本論で詳しく述べている。
また、レジリエンスには「中央集権的な代議制民主政治は分散型のピア会議による政治に道を譲っていく」(同)ことが求められるが、著者はすでにそれは始まっているという希望も述べている。
訳者によれば、著者はレジリエンスの時代に移行する希望を持てる要因を三つの点から述べている。
まずは、通信インターネットに加え、エネルギー・インターネット、ロジスティック・インターネット、モノのインターネット(IoT, Internet of Things)のようなインフラが出来つつあり、これは、中央集権型から分散型への移行を促すと言う。(しかし、この考えは、楽観的すぎるようにも思える。世では、GAFAによる独占、中央集権が指摘されている)。
つぎに、人間がもともと持っている適応能力に著者は期待していると訳者は言う。
そして、人間がすでに持っている共感能力である。この共感能力についても著者は本文で詳述している。
人間の「神経回路に、共感的な衝動という特別な資質が組み込まれている。この資質は可能性を備えており、無限に拡大できることが証明されている」(p.18)。
では、地球という生態系には、どのような経済生活、社会生活への移行が望ましいのだろうか。
「生産性から再生性へ、成長から繫栄へ、所有からアクセスへ、直線的なプロセスからサイバネティックなプロセスへ、垂直統合型の「規模」の経済から水平統合型の「規範」の経済へ、中央集中型の価値連鎖から分散型の価値連鎖へ、複合企業から柔軟でハイテク中小規模の協同組合へ、知的財産権からオープンソースとしての知識の共有へ、グローバル化からグローカル化へ、消費主義から生態系の保全と管理へ、国内総生産(GDP)から「生活の質の指標」(QLI)へ、地政学から生物圏政治へ、金融資本から生態系資本へ」(p.12-13)。
「天然資源の支配権から、地域の生態系の保全・管理へと移行する」(p.15)。
「知的財産権から知識の共有へ」について著者はこうも述べている。「近代以前の哲学者は、自分の考えを「独自の思考」とは思わず、しばしば夢を通して、あるいは畏敬の念に打たれた瞬間に、天から降ってきた「啓示」と見なした。それとは対照的に、著作という考え方は自律的な自己性が存在すること、すなわち、各個人は他者との唯一無二のコミュニケーションの占有権所有者であるという信念を強化した」(p.101)。
著者のファーストネームは、よくある名前だが、もとをたどれば旧約聖書のエレミヤに由来するようだ。
エレミヤは破滅を警告する。「 地には雨が降らず、大地はひび割れる。農夫はうろたえ、頭を覆う。青草がないので、野の雌鹿は子を産んでも捨てる。 草が生えないので、野ろばは裸の山の上に立ち、山犬のようにあえぎ、目はかすむ」(エレミヤ書14:4-6)。
しかし、希望の宣言もする。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」(エレミヤ書31:31-32)。
古い契約が回復されるのではない。新しい契約が結ばれるのである。そうやって、契約関係そのものは維持される。これは、まさにレジリエンスではないか。