「主の祈り」とは、新約聖書の福音書において、イエスが教えたとされる祈りのことです。キリスト教の礼拝でも毎週唱えられています。けれども、本書では、この祈りが、多くのキリスト教徒が持つイメージとは、かなり違う姿で描かれています。
たとえば、「主の祈り」は、キリスト教向けの信仰的祈りというよりは、「全地球上に向けて唱えられる、全人類のための革命的な宣言」(p.4)であると。どういう意味で「革命的」なのでしょうか。
たとえば、「パウロによる主の祈りの解釈」(p.31)という表現。パウロが「主の祈り」を解釈している場面なんて、聖書のどこにあったでしょうか。この表現はいったい何を意味しているのでしょうか。
たとえば、「聖書ではしばしば「父」は包括的に「父母」の意味で使われます――たとえそれが無神経な男性中心主義的表現であるにせよ」(p.52)、「「父母」は、単に子どもの保護者である「親」ではなくて、どちらかといえば家庭や拡大家族の責任者である「世帯主」を意味しているということ」(p.54)。「世帯主」という言葉で、著者クロッサンは、家父長や領主、王と、どのような違いを表現しようとしているのでしょうか。
さらには、「「終末」は・・・何の終わりなのでしょうか」(p.103)。さあ、何の終わりでしょうか。世界の終わりでしょうか。それとも・・・
「イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです」(p.116)。え?! イエスは「神の国は近づいた」と言って、神の介入を説いたのではなかったのですか。「神への参入」とはどういうことでしょうか。
ルカによる福音書の「主の祈り」では「御心が行われますように 天におけるように地の上にも」が欠けています。けれども、ルカは、この句を、同じ福音書の別の箇所に埋め込んでいると本書の著者クロッサンは言います。それはどこでしょうか。
「イエスは、代理ではなく協働を説きました」「パウロも身代わりではなく参与を説きました」(p.134)。え??!! イエスはわたしたちの代わりに死んだのではないのですか。クロッサンは何を言いたいのでしょうか。
イエスには舟や魚の話がつきまとうのは何故でしょうか。魚はギリシャ語でイクトゥス、これは「イエス・キリスト 神の子 救い主」の頭文字だからではないのですか。では何故?
最後に、「わたしを試みに遭わせず、悪からお救いください」。これはどういう「誘惑」を克服すべきだ、とイエスは言っているのでしょうか。この「誘惑」の克服こそが「革命的」?
これらの意外な問いの回答は、本書でお読みください。