町の教会の教職を辞めて、今は、広島の山地で農に取り組んで、神学的な営みを続けている友人がある。その友人の主催するZOOMトークで、荒川純太郎さんを拝見した。
名前は知っていた。アジアの農と関わってきた人だと聞いていた。ぼくは農村伝道神学校の非常勤講師をしている。農とは直接つながらない科目だけど。福音と世界10月号の特集は「土と農を愛する」であり、6人中4人の執筆者は知人だった。
そういうわけで、本書にも「農の神学」を期待した。
「たとえ今日なんの収穫もなかったとしても、将来のために「種子」を蒔くことができたのならそれで良い・・・コーヒーの種子は「眠れる種子」Sleeping Seedと言われるほど発芽に時間がかかります」(p.41)。
「最近見慣れた共生庵の田んぼ、畑、果樹園、裏山、桜土手などを見るたびに、四季折々そこに営まれている自然の素晴らしいサイクル・光景に心を奪われることがしばしばあります。そしてその素晴らしい不思議な営みの中で神様の摂理なるものを学び、人間もまたその一部でしかないのだということにも改めて気づかされています」(p.266)。
「大自然のふところに抱かれ、黙想しながら自らを謙虚に見つめ直し、人は有限であり、弱く罪深い存在であることを思い知らされることが根源的にだいじなことだ。そこから人間を超える大いなる創造主によって生かされているというメッセージが届くことを願っている」(p.274)。
こうした言葉を期待した。けれども、この本には、「自然と神」以外の言葉も少なくない。むしろ、そちらの方が多いのではなかろうか。
共生庵は「単なる農と自然に触れるだけの場ではなく、そこから多くを学び、教えられた体験を通して他者と出会う、あるいは自己に新たに出会い直して人間性の回復を目指すというステップが設定されている」(p.271)。
本書は、共生庵のニュースレターに掲載されたエッセイ集である。そして、それらのテーマは、「農と自然と神」だけでなく、「他者との出会い」、「人間性の回復」でもある。
「わたしがわたしとして生きる」とき、異なる他者をも生かす状況を作りだし、その共同体を熟成した生活の場にするという貢献さえできるのだ」(p.82)。
「いつもお元気で若々しい高齢者にであうとその秘訣は何だろう・・・この好奇心ではないかと思う場合が多く、その方の表情や生き方は、まさに「光(輝)齢者」という表現がぴったりくるようです」(p.162)。
「現代社会の食生活の貧しさを表す言葉に「個食・固食・孤食」などがあります・・・やがて我らの食生活は「枯食」になる・・・そこから抜け出すことができるのは・・・「呼食」ではないか・・・誰かを呼んで一緒に食事を楽しむことができれば」(p.170)。
これゆえに、共生庵のプログラムは「地球市民共育塾」と名づけられました。