670   「イカやタコを食べれば国が亡びる?」 ・・・ 「旧約聖書における自然・歴史・王権」(山我哲雄、教文館、2022年)

 山我哲雄さんの旧約論文集。しかし、そんなに難しくもない。

 

 「旧約聖書における自然と人間」「旧約聖書ユダヤ教における食物規定」「旧約聖書における「平和(シャーローム)」の概念」「ナタン預言の成立」「申命記史家(たち)の王朝神学」の五編が収められている。

 

 「旧約聖書における自然と人間」には意外なことが書かれている。

 

 「アダムの罪への罰としてはじめて死の宿命が下されたのだと考えられることも多い。しかしこれは旧約聖書の本来の見方ではない。人間はもともと死すべきものとして造られたのであり、アダムへの罰は、(死そのものではなく)労苦に満ちた生活とエデンの園からの追放に存する」(p.14)。

 

 では、死は罰ではなく何なのか。「自然が人間とともに神の被造物であるということは、まず第一に、両者が永遠なる神とは異なり、有限性を共有しているということを意味する」(p.11)。

 

 死は罪への罰ではなく、人間が自然と共有する有限性なのである。

 

 「旧約聖書には、後のキリスト教神学でいう「無からの創造(creation ex nihilio)の観念はまだないと言われる。天地創造の記述によれば、原初の世界は万物が水の中で未分化、無規定な混沌状態にあった」。

 

 「1:1 初めに、神は天地を創造された」。創世記のこのような個所について、「創造」とはゼロからの創造、何もないところに何かを産み出す力のことである、という説明は何度か聞かされた記憶があるが、そうではなかったか。

 

 たしかに、こう続いている。「1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。」」

 

 光は創造されたのではなく闇との混沌状態から分離されたのであり、大空は水を上下に分離することで生じたと読める。

 

 「旧約聖書ユダヤ教における食物規定」も興味深い。旧約聖書には、食べてよい食物とそうでないものが規定されている。牛、山羊、鹿は食べてよい。豚はだめ。ひれと鱗がある(もしくは見える)魚は食べてよいが、イカ、タコ、エビ、カニなどはだめ。

 

 その基準は明瞭ではないが、どうやら「死との結びつきが希薄なもの」(p.65)は食べても良いらしい。死との結びつきが強いものは避けられる。

 

 食物規定には理由とともに機能がある。「王国滅亡、捕囚という極限的な体験の中で、捕囚のユダヤ人たちは、食物律法を通じて自分たちを文字通り周囲の世界から文化的に「切り離す」ことを通じて、異教的環境の中で「聖なる民」としての自分たちのアイデンティティを維持することに成功したのだろう」(p.67)。

 

 「申命記史家(たち)の王朝神学」は、やや専門的な印象がある。旧約聖書は、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記、いわゆるモーセ五書で始まり、これに、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記が続くが、ヨシュア記以下のこれらの書には、「用語的、思想的に申命記に酷似した文書が見られる」(p.164)。

 

 マルティン・ノートという旧約学者はこれを「申命記史書」と呼び、著者を「申命記史家」と呼んだが、山我さんは、「ヨシヤ王時代(前七世紀後半)の「第一の申命記史家たち」と、王国滅亡と捕囚という状況を踏まえた前六世紀中葉の「第二の申命記史家たち」」(p.170)に分けて考える。

 

 イスラエルダビデ王、ソロモン王時代に最盛期を迎えるが、その後、イスラエル王国ユダ王国に分裂し、まず、イスラエル王国が滅亡し、つぎに、ユダ王国バビロニアによって滅亡される。これが六世紀の出来事である。

 

 国が滅びてしまうなんて、神は存在しないのか、神は正義ではないのか、という問いが高まる中、「第二の申命記史家たち」は、バビロン捕囚すなわち「約束の地の喪失も、王国滅亡も、神殿破壊も、決してヤハウェの側の約束違反ではなく、イスラエルの側の契約違反、律法違反の罪に対するヤハウェの正当な審判なのであり、その責任はあくまで民の側にある。それは決してヤハウェの無力や敗北を意味するのではなく、逆にヤハウェの義と、歴史におけるこの神の力を示すものなのである。究極の自虐史観とも言えるが、民の罪を強調することによって、ヤハウェへの信仰を守ろうとする、神義論的、弁神論的歴史観と見ることができるであろう」(p.195)。

 日本はアジア諸国を侵略してきたことを反省し、二度と繰り返してはならない、という歴史観を、それを認めない人たちは自虐史観と呼ぶらしい。けれども、自分や自分が所属する集団の歴史を反省することは、自虐などではない。むしろ、自分を大切にすることだ。

 

 悪いことをしたから神から罰を受けた、悪いことをしなければ自分は助かったのに、という自分本位の後悔よりも、シンプルに、悪いことをした、人を傷つけた、という反省が大事だろう。

 

 申命記史家たちは、自分たちはイカやタコを食べたから、国が滅びたと考えたのだろうか。むろん、神に背いた、神ではなく権力や軍事力に頼った、という反省がベースであると想像するが。

 

 

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