広島の山地に移住して農業に取り組んでいる友人らと「農の神学研究会」を立ち上げた。といっても、数人のZOOM会議である。
その寄り合いで「農の神学」とは何か、「農」とは何か、とあれこれ言っているのだが、これまた「農」に関わる知人から、本書を紹介された。
「農の神学」の「農」を一義的、決定的に定義することなど不可能だと思うが、この本を読んで、「都市的なもの」の限界、害悪を乗り越える何かを「農」と呼ぶこともできるのではないかと思った。
「本書で「都市」という言葉は・・・「都市的なもの」、つまり都市化を駆動する歴史的プロセスとその諸要因を指す意味で主に使われている・・・そのような都市化のプロセスは、いまやかつての都市と農村を、新たな空間――本書はグローバルシティという語をその空間を指すために用いることを提案している――のうちに飲み込みつつある」(p.259)。
「農の神学」とは、ひとつは、このような都市化のプロセスへの抵抗を目指すものであろう。
「そもそも私たちが「農村」とみなしている場所も、農村社会学では「近代農村」と呼ばれ、近代になって都市の食糧基地として市場経済に飲み込まれた農村である。したがって「脱都市」と呼んでいるのは、そのような都市/農村のペアから脱出すること、つまり都市と農村を飲み込む現在の「都市化」のプロセスから脱出することを意味している」(p.260)。
これにも倣うならば、「農の神学」は「脱都市の神学」でもあろう。「都市への抵抗」も「脱都市」も同義語かもしれないけど。
では、脱するべき「都市」とは何か。「都市は、人体にたとえれば農村や自然環境という「身体」を支配する「脳」のように見えながらも、実際には市場という経路を通じて、都市の外部に手を伸ばして膨大な資源を獲得し、都市の内部で消費した後、ふたたび都市の外部に膨大な量の廃棄物を排出する、巨大な消化器官なのである」(p.16)。
都市は駄目だから農村に行こうということだけではなく(そういう選択もあるけれども)、都市が農村を植民地としているそのような交換関係(というか略奪、搾取)から脱するべきなのだ。そうしないと都市住民も農村住民も都市による人間破壊から解放されない。
では、具体的にはどうしたらよいのか。
「私たちが火急に取り組まなければならないことは、自然/人間の二元論にもとづかない新たな自然観と人間観(社会観)を構想すること」(p.221)。
都市が駄目だから農村のようになろうというのも、ある意味、二元論であろう。この本の「都市を終わらせる」という題は「農村を飲み込んだ都市を終わらせる」ということではないか。
「麻薬のような都市生活と消費社会を求める欲求に抵抗することであり、面倒な他者とかかわらずに自分だけで充足したいという個人主義的欲求に抵抗することであり、肥大する東京圏の引力に対して地域社会を守るために地方において抵抗することであり、未来の子孫のための生活を食いつぶしても自己充足しようとする自身の幼児的欲求に抵抗することであろう」(p.240)。
本書に収められている論考のひとつに大阪の「橋下、維新」支持現象についてのものがある。要するに、従来の地域共同体に属さない層が、つまり、自民の地域利権にも革新の地域人権活動の益にも属さない新住民が、ネットやメディアだけを頼りに、自分と国家の直接のつながりを求めるゆえの結果、ということになる。共同体不在だから、つきあいのない貧困層、外国人に不寛容になる。
だから、著者は、地域共同体の住民活動を重視している(ようだ)。地域共同体は、国家と住民という二元論に抵抗する砦である。かつて、地方自治は民主主義の学校と言われていた。でも、それが廃校になったことは沖縄を見れば、あきらかである。学校を再建して、二元論を乗り越えなければならない。
「(自然から独立した純粋な)人間」と「(人の手の入らない純粋な)自然」の二項対立にもとづいて自然を保護するのではなく、中間領域である「里山」を媒介として、その二項対立そのものを克服することが課題となっている。」(p.253)。
だから、最初に触れた友人は「里山オイコス」と唱えるのだろう。