「一つの性が一つの集合体として、他方の性からの不利な取り扱いを余儀なくされているのは人類のみである」(「文化としての性差(M・ミード)」、井上眞理子)。
これは、性の二分法に基づいた言い方だから、「ある性が一つの集合体として、他の性から不利な取り扱いを・・・」と言い換えるべきだろう。性差別をするのは人類のみならば、性差別克服は社会学の主要課題であろう。
「社会集団は、それを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、アウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである((「ラベリングと逸脱」(H・S・ベッカー他)、徳岡秀雄)。
「特定の人びと」とは、ここでは、性、民族、職業などによる社会的集団のことであろうが、それ以外にも、言動や「感じ」ゆえに、つねに、アウトサイダーにされる個人が存在することも忘れてはならないだろう。
「歓待や贈り物を受容しないような自由はない」(「贈与論」(M・モース)、大野道邦)。
ぼくは人の家で苦手なものを出されたり食べたくなかったりするときは、食べないようにしている。しかし、それは、「歓待や贈り物」を拒否したと見なされるのだな!
「ナチズムの熱烈な信奉者の「権威主義的パーソナリティ」と、「仕事への衝動、節約しようとする情熱、たやすく超個人的な目的のために道具になろうとする傾向、禁欲主義、義務の強制的意識」といった性質を保持していた、かつてのプロテスタントのパーソナリティとのあいだには、その性格構造という面から見れば、本質的なちがいはなかった」(「自由からの逃走」(E・フロム)、島和博)。
ウェーバーの説を持ち出さなくても、ナチズムへの「熱烈な信奉」を共有する信者はめずらしくないのではなかろうか。