「利他」と聞くと、他者を利する、人に良いことをすることだと思う人もいるでしょう。押し付けがましいというニュアンスも込めて、ああ、道徳のお話しなのだ、と感じる人もいるでしょう。
しかし、本書によれば、道徳とは、こういう良いことをしましょう、というお説教のことではありません。
「「道」は、手にふれることはできない、しかし確かに存在する。私たちの人生は、その得体の知れない何かによって支えられ、運ばれている。それが松陰の実感でした」(p.72)
「手にふれることはできない」「道」「得体の知れない何か」は、「超越者」と言い換えることもできるでしょう。
「「道」もまた、私たちにある生き方を求めてくる。それが実現されたのが「道徳」です。道徳的であるとは、「道」にしたがっているということにほかなりません」(同)。
道徳とは年長者が押しつけて来る決まりごとではなく、超越に触れた時に促される生き方、道のことなのです。
本書では、「利他」もそのような前提から語られています。著者の若松さんは、最澄、空海、孔子、孟子、吉田松陰、二宮尊徳、中江藤樹など、いくつもの扉を開けながら、利他を物語ります。それは、著者の博識を示しているというよりは、著者がつねに一本の道――目に見えないもの――を辿っていることの現れでしょう。
「最澄は、「自分を忘れる」ことに「利他」とは何かを考える力点を置きました。空海は、「自他ともに」というところに力点を定めるのです」(p.25)。
自分を忘れて他者を利するべきか、自分をも他者をも利するべきか。若松さんは、いずれにせよ、「自分の存在を抜きにした「利他」」(p.32)はありえないと言います。それは、他者と切り離された自分は存在せず、自分と他者は一体であることに至るのでしょうか。
「菩提心とは・・・すべての「いのち」を救いたいと感じる心である」(p.19)。この「すべて」と「いのち」において、自他は切り離せないのではないでしょうか。
本書でいちばん心に残ったのは「愛語」という言葉です。これは道元の言葉だそうです。
「愛語というのは・・・けっして乱暴な暴力的な言葉を用いないことだ、と道元はいいます。情愛のこもった言葉で呼びかけ、人を傷つけるような言葉遣いをしない」(p.34)。
若松さんはこれをイエスの言葉に結び付けます。
「『ここからあそこへ移れ』と言えば、山は移る。あなた方にできないことは何もない」(フランシスコ会聖書研究所訳)
「怒りの山、恨みの山、不信の山、あるいは悲しみの山。しかし、愛の言葉が、そうした「山」に「ここからあそこへ移れ」というと、その「山」は動いてしまうというのです。もちろん道元は『新約聖書』を知りません。しかし、仏教とキリスト教という異なる宗教がともに、愛の言葉に不可能を可能にするちからを見出していたのは注目に値することです」(p.38)。
たしかに言葉は愛の言葉でなくてはなりません。神の愛に根ざした言葉、神の愛を妨げない言葉が、他者と自分を利するのでありましょう。いや、両者が神の愛を享受するのでしょう。他者が自分の言葉によって侵害されない。それは自分の利でもありましょう。