キリスト教には4世紀ごろから唱えられている「使徒信条」というものがあります。キリスト教の信仰を簡潔にまとめたものですが、このように結ばれています。
「からだの復活、永遠のいのちを信じます」
若松さんのこの本のタイトルにある「亡き者」は「死者」とも呼ばれます。
「キリスト教では、イエスは十字架上で死んだ後、三日後に復活したと信じられています。ここでの「復活」は「蘇生」ではありません。死者として新たな生命を得ることです」(p.140)。
若松さんが著してきた「死者」とは「復活」した者のことだったのです。(「蘇生」した者のことではありません)。キリスト教では、イエスの復活に先導され、人びと、そして、わたしたちも復活する、と信じられています。若松さんが書いてきた死者とは、今わたしたちに語りかけるイエスのことであり、人びと、そして、わたしたちのことだったのです。
この本の中で、内村鑑三の著作「後世への最大遺物」が紹介されていますが、若松さんはこう評しています。
「内村のいう「後世」とは、生者である私たちが死者となって参与する世界である・・・この本をゆっくり読むと、彼にとって生きるとは、死者たちによって開示された道を歩くことであり、また、死者となってもなお、人は道を歩き続けることが感じられてくるだろう」(p.94)。
復活、永遠のいのち、とはこういうことを指すのではないでしょうか。
たとえば、世界に平和を実現することは、後世に引き継ぐべき課題ですが、その後世の歩みに、わたしたちは死者となって参与するのです。
それは、むろん、「蘇生」することによってではなく、おそらくは「転生」することによってでもなく、死者として語りかけることによってでしょう。
わたしたちは今死者から語りかけられ、やがて、死者となって生者に語りかけるのです。それは、音声ではなく、コトバ、時には、沈黙であることでしょう。
「私のいう「死者論」とは、生者と死者の関係、あるいは交わりを考えることです」(p.15)。
「死者は生者に向けていつも何かを語りかけます」(p.62)。
現在という時間、現在という世界は、現在呼吸をしている人びとだけによって、現在の生者だけによって、成っているものではありません。現在は、過去の堆積であり、未来の展望です。過去も未来も、語りかけと交わりによって、現在を、永遠をなしているのです。
若松さんの本は何冊か大切に読んできたつもりですが、今回は、使徒信条の理解を深められました。