786 「ひとつの考えにこだわらず共存、自己創造」・・・「100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯 ローティ」(朱喜哲、NHK出版、2024年)

 哲学とは何でしょうか。と、哲学の入門書などにはいろいろ書いてありますが、最近、淡野安太郎「哲学思想史」を読み始め、さらに、「100分de 名著」のこの巻の最初の方にある「西洋哲学の歴史」という項目を読んで思ったことは、ぼくにとって、哲学とは、哲学や哲学史の本とされているものに出てくる思想のことなのだな、ということです。

 

 「デカルトは・・・「存在」から「認識」へと哲学の主題をスライドさせたのです。この認識論を発展させ、人間は何が認識できて何が認識できないのか、理性の限界はどこにあるのかを確定しようとしたのが、近代のカントです」(p.11)。

 なるほど。デカルト登場までは、プラトンとかアリストテレスとかキリスト教神学者たちが「普遍」とか「神」とか、そういう「存在」について考えていたということですね。

 では、ローティさんは何について、あるいは、何を考えたのでしょうか。

 

 ぼくがこの本を読んだ限りの印象で言いますと、世界や人間について語る言葉で、これが唯一の正解というものはない、それぞれの回答があるだけだ、回答はいろいろ言い換えられる相対的なものだ、それなのに、そのどれかを正解だと主張するところに暴力がある、だから、人権も唯一の正解的に言い表された人間の「本質」に基づくのではない、だからと言って、人間が他者によって侵害されて良いわけではない、といった感じです。

 今、上の段落で「言い換え」と言いましたが、これは「再記述」とも「言い換え」られます。「再記述は、抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の“襞”を増やしていくことだと言えます」(p.29)。

 たとえば、聖書の創世記は何を物語っているのでしょうか。この人はこうだと言う。あの人はああだと言う。しかし、どちらかが唯一の正解ではない。たがいがたがいの再記述だと認識しあう、ということです。その記述に賛成はしなくてもよい。でも否定もせず、この人はこう記述するのだな、ということだけを認めるわけです。

 けれども、これは、他者の存在の承認だけでなく、自分をゆたかにすることにもなります。「ローティが言うように、そうした確かさへの執着を放棄することで、私たちはことばを使ってより自由に自己創造ができるというポジティブな面も開かれてくる」(同)。

 同意はできないが否定もしない、という姿勢をさらに深めて、こういう考え方も自分のポケットに入れておこう、襞にしよう、とすると、自分が小さく凝り固まらずに自由にゆたかになれるのではないでしょうか。

 

 「「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる」(p.32)。

 意見の違う相手にあわせなくてもよいが、相手を攻撃する必要もない、その意味で互いに保護し協力しあう、というのです。

 「自分にとっては「ファイナル」と思えるボキャブラリーさえも、よりよくなる可能性に開かれたものだと考えることが、まさにアイロニーだということになります。ローティは、アイロニストは自分の終極の語彙が絶対のものだとは思っていない。なぜなら事実、他人の終極の語彙に感銘を受けることができるからだと言っています」(p.37)。

 アイロニストとは皮肉屋ではなく、自分だけが正しいと言って我を忘れるようなことのない人のことでしょう。「ファイナル」や「終極の語彙」とは、精一杯考えて、自分の今の時点ではこれが最良だと思っているというもののことでしょう。しかし、それが絶対ではないと。他にもありうるし、変わりうると。

 そうすると、人間の本質なども言い表せず、本質が言えないなら、人間の基本的な権利なども言えない、人間には皆人権があるなど「本質」的な言い方はできなくなりますが、ローティはこう言います。

 

 「そうは思いながらも、人が受ける苦しみや、人類がなしうる残酷さというものが減少することを望む、それは両立しうる」(p.43)。

 人間の「本質」を正しく唯一の方法で規定することはしないが、人が残酷な苦しみを受けることが減ることを望むことはできる、というのです。

 

 このようにローティの得意技は、矛盾するように思えるかも知れないものの両立です。

 

「一人の人間のなかには「正しい建前」と「正しくない本音」がある。それらは直接的には矛盾するケースがあるけれど、それでもその人のなかで併存していてもいいのだ」(p.49)。

 「正しい建前」は公的な場で、「正しくない本音」は私的な場で、ということになります。公的な場と私的な場での言動が矛盾していても、それは、併存なのだと。

 

 ところが、インターネットですと、私的な場と思い「正しくない本音」を吐いたところ、それが公的なものとみなされ、ぼくはひどい目にあったことがあります。嫌な上司を公的な場で罵倒したわけではなく、私的な場でやれやれと言っただけなのに、相手が反論できない場で非難するのはどうのこうのと・・・

 「複数のボキャブラリーをある絶対的な基準に照らし、どちらがすぐれているかを判定するようなことはできない、というのがポイントです。ボキャブラリー同士は、どちらがより真に近いかという意味で優劣をつけられるものではない。つまり、人間や社会もそういうものだ、ということです」(p.56)。

 そうなのです。宗教なども、とくに、歴史の長い宗教などでも、じつはそうなのですが・・・どうも・・・

 「われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない」(p.86)。

 人間を「本質」などでは来てしないけれども、「われわれ」を「わたしの家族」「わたしと同じ意見の人」「わたしと利害をともにする人」から、「文化や意見や利害が異なる人」にまで拡張することによって、人の間の残酷を回避するというのです。

 

 「文化の違いや宗教の違いは、一見すると大きな違いに思えます。しかしそれがどれだけ違っていようとも、そこに苦痛を受けている人が存在する、辱めが存在する、そこに対して残酷さを行使するようなわれわれの加害行為がありうる、こうしたことに思いを馳せることによって、「われわれ」という範疇を少しでも広げることが可能になるのではないか、ローティはこのような考えを示しています」(p.100)。

 「ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を改訂へと開くことに促す点にこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがあるからです」(p.106)。

 このような観点から、ローティは、特定の哲学者の思想よりもフィクションやジャーナリズム、エスノグラフィーを重視しますが、本著の著者の朱さんは、一人の哲学者にも思想の変遷があり、それを追うことには、「本質」「正解」に執着しない思考法に有益だと提起しています。

 

 ならば、哲学とは哲学史のことだという考えも、的外れではないかもしれません。本質ではないかもしれませんが、言い換えのひとつには並べられるのではないでしょうか。

 

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