人は、世界の根源、永遠なるもの、目に見えないもの、奥底にあるもの、超越者、あるいは、神と呼ぼうと、それに触れた時、それをどのように表現するのだろうか。この本にはそのいくつかの道が紹介されている。
高村光太郎が「作る蝉は、岩手の山を飛ぶ蝉であり、同時に永遠なる世界に生きる蝉でもある」(p.10)。舟越保武が「作る女性も、この世の人でありながら同時に、悠久の世界を生きる人でもある。それらは、見る者にこの世界への情愛をかきたてると共に彼方の世界への憧れを抱かせる」(同)。
志村ふくみは染織家である。「志村の作品の数々は、見る者たちにとって、耳に聞こえる音の彼方、目に見える光の彼方にあるものの扉になる」(p.27)。
志村の染める色は、世界の根源の「象徴」というよりは「扉」なのだ。それは「彼方」「永遠」に通じている。
「詩人の言葉は、愛する者にとっては、意味を表わす記号ではない、彼方の世界へと通じる扉になる」(p.39)。
彫刻作品、染織、詩は、見に見えない永遠の世界、真実の世界への入口なのだ。
若松さんによれば、井筒俊彦は「文化の根底を形成しているのは「コトバ」である」(p.148)と考える。「井筒が言う「コトバ」は、いわゆる言語を越えている。それは人間のあらゆる感覚に「意味」をもって迫ってくる何ものかである」(p.148)。「文化的差異は、違いの現われであると同時にそれらを包括する大いなる普遍者の存在を感じさせる」(同)。
文化もまた、目に見えない実在の表現だったのだ。
若松さんは、自分は「批評家」であると言っている。批評家とは誰か。「批評とは、批評家が媒介となり、現象の世界と実在の世界をつなぐ営為の呼び名ではないだろうか」(p.190)。
若松さんは、本書で、さらに、石牟礼道子、池田晶子、中原中也、小林秀雄、神谷美恵子、鈴木大拙、内村鑑三らの言葉や作品に「彼方」「実在」「普遍者」の扉を観ている。それが批評であり、批評もまた、こうした言葉や作品の庭に集うのである。