若松英輔さんがこう記している。「チェーホフもまた、「神なき神秘家」と呼ぶにふさわしい人物だった。彼は「神」を語らない。しかし、「世界に遍在する一つの霊魂」(『かもめ』)を信じていた。人間もまた、その霊魂の一部である」(若松英輔、「亡き者たちの訪れ」、2022年、亜紀書房、p.83)。
これを読んで、ぼくは「かもめ」を再読することにした。
「世界に遍在するひとつの霊魂――それが私だ、この私だ……。私のなかにはアレクサンドロス大王の魂もシーザーの魂も、シェイクスピアの魂もナポレオンの魂も、生き残った最後の蛭の魂までもが宿されている。私のなかで人々の意識と動物たちの本能がひとつに混ぜ合わされている。それだから私はすべてを記憶し、すべておぼえている。そして自分の中にあるひとつひとつの命を、私は新たに生き直しているのだ」(p.28)。
「ただひとつこの私に明らかなのは、物質の力の基である悪魔との熾烈をきわめる戦いで私が勝利を収めること、しかるのちに物質と精神がえも言われぬ調和の中で一体となり、世界を統べるひとつの意志の王国が訪れるであろうことだ」(p.29)。
このふたつは、じつは、劇中劇、つまり、「かもめ」の登場人物の一人である若い作家が書いた戯曲の中のセリフだ。「かもめ」の表層は、何組かの恋愛模様になっている。チェーホフは、その下に、若松さんが指摘するテーマをいったんはもぐりこませた。
しかし、若い作家の母親は、これを「なんだかデカダンじみている」(p.28)としか言わない。ただ、ある医者は若者に「重要で永遠不滅なものを描くことだ」(p.42)とアドバイスをしている。チェーホフも、永遠不滅なものを書こうとしているのだろうか。
医者はこうも言っている。「実際この世の中に世界をひとつに統合する魂というのがあるんじゃないかという気になってくる。かつて君のお芝居でニーナさんが演じてみせたあれだよ」(p.121)。
劇中劇のテーマが、劇の表に浮かび上がってくる。
医者の言葉に啓発されたのか、作家も「魂から奔放に流れ出てくるものを書くことが大切なんだ」(p.137)と述べることになる。
この「魂」は自分の中にあるものではなく、医者が言った「世界をひとつに統合する魂」であり、作家が劇中劇に書いた「世界に遍在するひとつの霊魂」のことであろう。「ひとつの」とは「いくつもの中のひとつの」ではなく「すべてを包むひとつの」という意味であろう。