十代のころ、何気なく、テレビの高校野球を観ていると、父が「この桜美林というのはオベリンという人の名前から来ているんだ」と教えてくれたことがある。
五十才前後のことだろうか、桜美林大学の礼拝で説教を、と一度だけ呼んでいただいたことがある。
何年か前、息子が受験するので、学部や学科などを調べたことがある。
ぼくと桜美林との関りは、これくらいだろう。しかし、最近、アメリカ・キリスト教史の本を読むと、オベリン大学は、早くから黒人学生にも開かれていたことを知った。
そこで、桜美林への興味が起こり、この本が出たので、読んでみることにした。すぐれた人物伝には胸躍る。
清水安三さんは、このオベリン大学を卒業し、のちに、日本に桜美林大学、桜美林学園を創設する。同志社大学神学部の大先輩でもあり、桜美林と同志社のつながりの深さも、この本で知った。
清水安三さんはどういう人なのか。
「ヴォーリズが「キリスト教は生き方なのです」と主張したように、清水もまた「宗教は思想ではなく生き方であり」という言葉を残しています」(p.32)。
たしかに、本書は、清水の思想の体系を論じたものではなく、生きた道を述べたものである。
「清水のキリスト教信仰は、良心において啓示される神の命ずる指針を聞き取る信仰のあり方だと言えるのではないでしょうか」(p.71)。
指針とは行動、生き方の指針である。清水は良心に従って生きようとするが、その良心に神が指針を啓示するというのだ。
清水は「キリストへの信仰を通して与えられる恵みによって、崇高な人格を求めるために」(p.166)と述べ、「人格を主イエス・キリストの人格にまで育て上げることのできますように、愛に富んだ、慈愛に満ちた、本当に立派な人となることができますようお導きください」(p.200)と祈っている。
清水は、神とイエス・キリストによって、慈愛に富んだ人格、オベリン大学のように、苦しめられている人、虐げられている人を大事にする人格へと自分が導かれ、若い人たちがそのように育つことを祈りつつ、教育者として生きたのだろう。
良い人になれば救われるという誤解を回避するために、人格形成は信仰の周縁に置かれる場合があるが、清水はそれを中心に据えた。