696「初期キリスト教世界と著者の思想は?」 ・・・「初期キリスト教の世界」(松本宣郎、新教出版社、2022年)

 イエスの言動やその意味を探求したり、旧約聖書の中にイスラエルの神学思想史を追ったり、そういう書物はおもしろい。ストーリーがあるからだ。

 

 けれども、この本にはそれが欠ける。人が何を考えて何をしたのかが描かれていない。1世紀から4世紀までのキリスト教世界をキーパーソンの思想と行動で展開することはできなかったのか。

 

 それでも、本書から得るものもあった。

 

 「私も、三世紀までキリスト教徒は都市のごく少数者集団として、さしたる攻撃に遭遇することなく存在しており、迫害は多くはなく、起こっても限定された都市で、一般住民の間から発生し、しかも短期間で終わるものだったこと、当局たる都市役人や総督は迫害対策に乗り出すことはなかったことを指摘した」(p18)。

 

 「初期キリスト教史を、帝国や異教徒による血生臭い弾圧の歴史とする見方は基本的には現在では棄てられたと言ってもよいと思う」(同)。

 

 そうであるなら、どうしてかつては「帝国や異教徒による生臭い弾圧の歴史とする見方」があったのか、そこを論じればおもしろかったのではないか。

 

 「ユダヤ教徒よりも少なかったであろうキリスト教徒は、我々もよく知っているように民族的な壁がないわけです。どの階層、奴隷も自由人もある程度、礼拝するのは平等だという形であることは、逆に言えば伝道する際の強みにもなっていたでしょう。けれども、周囲の社会からすると、妻や子供がいつキリスト教に引き入れられるかわからないという一種の恐怖感を与えることにはなる。それが増幅していきますと迫害になる。実際に、妻がキリスト教徒になったので離縁するとか子供を奪って妻を家から追い出すとかそういう事例は出てくるのです」(p.74)。

 

 つまり、この事例のような「迫害」はあるのですが、国家としてキリスト教を組織的に弾圧するレベルの迫害が初期から続いたわけではない、と言うのです。

 

 この「迫害の事例」は、じつは、現代社会にも皆無ではなく、カルトやカルトでない宗教を信仰する家族をとくに夫、父親が苦しめる場合はかなりあるのではないでしょうか。教会に行くのに夫や父の許しが必要という人もいるでしょう。その場合、その人は教会では平等に扱われている(と感じている)のに、家では蔑視されているのではないでしょうか。

 

 「キリスト教は二世紀になると、いろいろなところでクリスチャン以外の者も教会に招いて食事を与え、家を提供して病気を治す病院のような、社会福祉的な役割を果たしていたようです」(p.106)。

 

 「下級裁判、民事裁判が教会の司教に任せられるということもありました」(p.107)。

 

 初期のキリスト教にこのような社会資源としての役割があったことも、現代のわたしたちキリスト教会にとって示唆的だと思います。

 

 このように断片的には、読んでよかったと思う記述もあるのですが、この本全体から伝わって来るような著者の想い、思想を感じられなかったのは残念でした。この著者は何を言いたいのだろうという疑問が最初から最後までつきまといました。 

 

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