792 「地球と読者にやさしい一冊」 ・・・ 「エコロジカル聖書解釈の手引き」(関西学院大学キリスト教と文化研究センター編、2024年、キリスト新聞社)

 この本では、タイトルにあるような聖書解釈、キリスト教理解を四人の論者が展開しています。

 

 大宮有博さんは「エコロジカル聖書解釈の視点で読む安息日」の中で以下のようなことを述べています。

 

 申命記5:14に「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあるが、「牛、ろば」は、羊ややぎとは違い、重労働を強いられた点で、奴隷と重なる。

 

 安息日は創造の記念日であると同時に解放の記念日であり、過酷な労働を負わせられる動物と人間が解放されるべき日である。

 

 大宮さんは、また、「「地球」の声を聞く―エコロジカル聖書解釈の視点で読む「バラムとろば物語」―」では以下のようなことを記しています。

 

 ろばはバラムに、また神はろばの口を通してバラムに大事なことを訴えているが、バラムはそれを聞かず、ろばを黙らせている。これは、「地球」=「山川草木」「森羅万象」からの警告に耳を貸さないわたしたち21世紀の人間に通じる。

 

 わたしたちは「地球」に聞き、「地球」との関係をとりもどすべきである。

 

 大澤香さんは「人間とは何か―エコロジカル聖書解釈の視点で読むヨナ書―」で次のようなことを論じています。

 

 神の「「法」は脱落者を排除するための「規則」ではなく、「すべてのものが安寧に生きるために必要な秩序」」(p.56)である。

 ヨナ書を上記の視点から読むのであれば、海も大魚も風も虫も、神の命に単純に服従したのではなく、「憐れみ深い神の世界に対する「友情」に共鳴」(p.61)しているのだ。神はヨナにもそのような共鳴を促している。神と人間の関係を君主と下僕の関係ではなく友と友の関係で認識すべきではないか。

 

 東よしみさんは「エコフェミニスト聖書解釈の視点で読むヨハネ福音書のプロローグ」で聖書の新鮮な読みを展開しています。

 

 すなわち、イエスにおけるロゴスの受肉は、「人間との連帯を示しただけでなく、すべての被造物との連帯を示した」(p.65)と。また、テントを張るとはテントと大地の一種の共同作業であり、幕屋を貼ることも、ロゴスと大地、地球の連帯であると。

 藤原佐和子さんは「エキュメニカル運動における環境正義と〈いのちの問題〉」において、宗教改革から500年経った今「エコロジカルな宗教改革」という発想が出てきたことを指摘しています。

 学術論文を一般読者向けに書き換えた論考もあり、とても読みやすく、しかも、エコロジカルな聖書解釈の主要点がしっかりおさえられている一冊だと思いました。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB-%E8%81%96%E6%9B%B8%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D-%E9%96%A2%E8%A5%BF%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4873958318/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3I6AJD737DL8W&dib=eyJ2IjoiMSJ9.zy4Qkq8EtpmFKaQGMllc5Q.73Qq-9YNF0bnD-jrZZuUPY_6H9_DCLWIvW7esROPMgY&dib_tag=se&keywords=%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E8%81%96%E6%9B%B8%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D&qid=1715990933&sprefix=%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E8%81%96%E6%9B%B8%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D%2Caps%2C156&sr=8-1

 

791 「すぐ読めるキリスト教音楽超入門」・・・ 「宗教音楽の手引き (皆川達夫セレクション)」(皆川達夫、2024年、日本キリスト教団出版局)

 教会音楽に親しんでいる方がたには当然の知識だと思われますが、ぼくには、聞いたことはあるが、今回初めて意味を知った言葉がいくつかありました。

 

 「アリア」は(おそらくバッハのマタイ受難曲において)「さしはさまれる、聖書にはない自由な抒情詩」のことで「楽曲に大きな彩りをそえる」(p.25)ものだそうです。

 

 「レクイエム」は「レクイエム・エテルナ(永遠の安らぎ)」という語から始まる「死者のためのミサ」(p.28)のことだそうです。つまり、「入祭の歌(イントロイトゥス)」「あわれみの賛歌(キリエ)」「感謝の賛歌(サンクトゥス)」「平和の賛歌(アニュス・デイ)」といったミサ曲の構成要素が含まれるのです。

 

 キリスト教では音楽が発展した理由については、偶像崇拝が禁じられたので、視覚ではなく聴覚に訴える音楽が重要視されたと述べてられています。

 

 また、「プロテスタント教会では「万人祭司」の立場から、すべての人びとが声をあげて平等に神を賛美し歌うのが望ましいとされる」(p.85)ということです。

 ロ短調ミサ曲、スタバット・マーテルなど代表的なキリスト教宗教曲が、皆川先生のお勧めの演奏とともに紹介されています。

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%97%E6%95%99%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D-%E7%9A%86%E5%B7%9D%E9%81%94%E5%A4%AB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E7%9A%86%E5%B7%9D-%E9%81%94%E5%A4%AB/dp/4818411620/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3C8Q3U6PZXIV0&dib=eyJ2IjoiMSJ9.I2SRTHiQ32d3vQCxAF_mJZdQFFHlwMAsTHS1MN5NR1SG2QQ1z8n9BvnX8TpZf3bd.VbCddZbp9Kv-vOEkBQRRa2kL5YmV1_lQAV-k-sKmG0c&dib_tag=se&keywords=%E5%AE%97%E6%95%99%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D&qid=1715576364&sprefix=%E5%AE%97%E6%95%99%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D%2Caps%2C164&sr=8-1

790 「海軍と天文と戦争と家系とキリスト教」 ・・・ 「また会う日まで」(池澤夏樹、2023年、朝日新聞出版)

 

 

 池澤夏樹の親族の歴史。海軍軍人、天文学者にしてキリスト者秋吉利雄の生涯。二十世紀前半の日本の戦争。

 

 池澤夏樹の大叔父(祖母の兄)秋吉利雄、利雄の子秋吉輝雄(旧約聖書学者)、福永武彦(仏文学者、池澤夏樹の父、利雄の妹の子)らが登場する。

 利雄の生涯だから、海軍、艦船、艦船・船舶に関わる学問と技術・歴史、キリスト教信仰、そして、日本の戦争も描かれている。それらはつながってもいる。

 

「艦船が天測暦を信頼するようにわたしは聖書を信頼していた。しかし海上で観測なくしては自分の位置を知り得ないように、聖書を手にするだけで霊の導きは得られない。読むこと、考えること、祈ること。主を背にして現世に向けて力を尽くすこと」(p.217)。

 船は母港を背にして大海原に出航するように、キリスト者イエス・キリストを背にして現世を生きる。「背にする」とは「背中を見守られる」ということである。

 

死別した利雄の妻チヨは言う。「イエスさまも母親と同じなの。見ていて下さるの」(p.213)。

 

「母というのはそういうものなのだ。前方に見えなくてもいい。しかし振り返るとそこにいる」(p.466)。利雄にとって、神もイエス・キリストもそうなのだ。

 

 利雄は戦争をどう考えたのか。

 

 「主イエスがお生まれになった時・・・天使が・・・「・・・地には平和・・・」と告げた・・・しかし主がいらしても戦争はなくならなかった・・・その後の世界の歴史には数知れぬ戦争が刻まれている・・・時にキリスト教徒は信仰を広めるために戦争という矛盾を口にした・・・そして今、日本は戦争のただ中にいる」(p.443)。

 「特別攻撃が制度化されてどんどん拡大している」「戦闘機などに爆弾を搭載して敵艦に体当たりする。以前からそういう考えや研究はあったが、さすがに人倫に反するという抑制が働いていた」(p.539)。

 

 戦争はその抑制をなくしてしまう。抑制をなくすと戦争が起こる。

 「志願という形の強制だよ。そういう雰囲気を作ってしまえば若者はその熱狂の空気に乗る。それを見越して上層部が絵図を描く。手を挙げざるを得ない」(p.539)。

 

「「生きて虜囚の辱めを受けず」・・・捕虜になるならその前に死んでしまえと言うのだから、同じことを敵に応用すれば殺していいことになる」(p.662)。・・・これは、敗戦後の「戦犯」への言及。

 

 戦争の原因は何なのか。

 

「日本は実際にはずいぶん大きな国だ。ヨーロッパのたいていの国は日本より小さい。それなのにアメリカや志那やソ連と比べて小さいと思い詰めて劣等感から背伸びをした」(p.663)。

 

「国家は日々粛々と進んで行く。物理学にいう慣性の法則があって急に曲がれない。曲がろうとすれば転覆する」(p.664)・・・これは、戦争を始めた結果の亡国であろう。

 

「人が生きる道に到達はない。大事なのは方位だ」(p.465)。

 

 人も国も、そして、目的地があるように思える航海さえも、じつは同じなのではなかろうか。大事なのは方位だ。信仰はそれである。

 

 利雄は死の数日前、娘に言う。

 

「洋子、あれを歌ってくれないか?」「えっ? 何のお歌?」「聖歌。『主よ、みもとに』」(p.691)。

 

 タイタニック号でもこれを聞きつつ天に召された人びとがいた。

 

 船乗りではないが、ぼくも、その日が近づいたら、この歌を聞きたい。歌ってほしい。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BE%E3%81%9F%E4%BC%9A%E3%81%86%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7-%E6%B1%A0%E6%BE%A4-%E5%A4%8F%E6%A8%B9/dp/4022518979/ref=sr_1_4?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=309EJO4SIUVK4&dib=eyJ2IjoiMSJ9.qrENqou1zdq7gLvR4eWYcJe55iOkFY4un8FbZ3Y2xFF0wn1c2gr1oFv2La674hlOpRwMynMz-wxst4_TLPxXrztX7h5k3u6mK9ocP-vlXHaiILwvyWRtasC4MKHXUXsOboCJ6D7MTyIYS-k8C8Bs6Lgk6oidRvrVSAT8NNwE2B_WoajxSE1Uwe0xAza-eka-F9EojK09bhbDcRpFVNJavwCZuWjR9NaKArsVOUx2h9WrAJCj5WLq-zcJB0irqMbKJYsbXbXbGtYJYIymYfM7rRQU3jgLR44x-8wIGrWpeHQ.o26dH0nbdIX_vdqBqQYR__o_6jZ5zOmIOwb8oVbpO8A&dib_tag=se&keywords=%E3%81%BE%E3%81%9F%E4%BC%9A%E3%81%86%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7&qid=1715390521&sprefix=%E3%81%BE%E3%81%9F%E4%BC%9A%E3%81%86%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7%2Caps%2C169&sr=8-4

 

 

789 「聖書やキリスト教を解凍する」 ・・・「使徒信条を詠む  キリスト教信仰の意味と展望」(阿部仲麻呂、教友社、2021年)

誤読ノート789 「聖書やキリスト教を解凍する」

 

使徒信条を詠む ─キリスト教信仰の意味と展望」(阿部仲麻呂、教友社、2021年)

 

 「私たちの心で「冷凍パック」を温めることで、過去の遺産は新鮮で実り豊かないのちの力に満ちたメッセージを現在化させることになります。私たちには、昔から伝わってきたさまざまな物語やテクストや作品を温めて解凍すること、現在に甦らせることが各時代の真摯な作者から絶えず要請されているのではないでしょうか」(p.416)。

 この言葉の通り、阿部さんは聖書やキリスト教の用語やメッセージを、まさに「温めて解凍」し「現在に甦らせ」てくださいました。

 

 「キリスト教信仰の豊かさを決して損なうことなく正確に把握したうえで平易なメッセージに自在に変換して相手の心を愛情で満たし勇気づける」(p.14)。

 

 以下に、その様子をご紹介いたします。

 

 「使徒信条」=「愛情深い想いに裏打ちされた使徒たちの心の歌」(p.16)

 

 「信仰」=「神との深いつながりのうちで生きてゆく姿勢」(p.25)

 

 「御父」の「いつくしみ」、「御子イエス・キリスト」の「恵み」、「聖霊」の「よろこび」(p.28)

 

 「キリスト者」=「神との関りを取り戻して、愛情深い信頼に満ちた美しい状態にまで成熟されるように招かれていることを自覚して、自らの生き方として意志的に選び取った者」(p.32)

 

 「聖性」=「神との親しさ」(p.43)

 

 「キリスト者が信じている神は、徹底的に相手を優先して大切に育みます。そして、「相手を大切にする神」に対する信頼を深めるのがキリスト者の信仰生活です」(p.53)

 「イエス・キリストは相手を大切にするまなざしによって相手そのものをすなおにまるごと受け容れて、相手の言い分をそのまま聴きとると同時に慈しみ深い言葉をかけつづけ、肩に手を添えて心のぬくもりを伝えます」(p.54)

 

 「イエス・キリストがいのちがけであかしした御父である神は常に相手といっしょにいたい(受肉)と願い・・・自分をかなぐりすてても決して悔いはないという真剣な愛情表現、その圧倒的な愛のエネルギーが聖霊と呼ばれています」(p.54)

 

 「救済」=「神が相手を見放すことがなく、何としても理解しようとして手を差し伸べつづけるわざ」(p.57)

 

 「神化」=「神が人間という相手を大切に思うがゆえに、自分の手の内を全部さらけ出して、惜しみなく分かち合う姿勢をとった(自己捧与)おかげで、人間は神の想いを理解する機会を得て、その寛大なふところへと自らを委ねるようになる」(p.58)

 

 「救い」=「神のいつくしみに支えられて人間一人ひとりがすこやかに活かされて豊かになること」(p.82)

 

 「天地の創造主」=「あらゆるものが神の支えなしには生きてはゆけないことを強調する」表現(p.97)

 

 「神による創造の出来事」=「渾身の愛情をこめる」という稀有なる仕儀(同)

 

 「創造」=「愛情をこめて呼びかけること」(p.98)

 

 「救い」=「相手のすこやかさを心から願って常に支えること」「各人が神からありのままに肯定されて、まわりの人とともに充実した交流を深めることで「いのちの豊かさ」を味わうこと」(p.106)

 

 「御父と御子は、人間を大切にするという意志においてひとつにつながってはたらくのであり、その深い一致をしっかりとつつみこんで活性化させる聖霊も連携しています。このような連携の事態を四世紀の教父たちが理論的に表現したものが「三位一体の神」という神理解」(p.111)

 

 「「人類共同体全体を責任をもって最後まで支える主の力強さ」を物語るのが「私たちの主」という言い回しです」(p.112)

 

 「使徒信条はイエスの人間的な生い立ちを物語るわけではなく、むしろ、「三位一体の神が全人類といかに関わっているのか」を提示しています」(p.127)

 

 「「肉」には「神から離れて生きる傲慢な人間の生き方」という意味があります。一方、「霊」には「神とともに生きる謙虚な人間の生き方」という意味があります。「霊」という言葉は、神の前でへりくだる生き方を示しています。神を選んで、その想いに従って生きる人が「霊の人」なのです」(p.129)

 

 「イエスの死は、しいたげられたすべての人間の絶望の心を生きる徹底的な歩み寄りの出来事であると同時に、すべてをなげうってでも相手を活かす神の犠牲的ないつくしみの顕現でもあると言えましょう」(p.138)

 

 「神の国」(神による王的支配)=「神のいつくしみが広がってゆく状態」(p.140)

 

 「復活」=「ゆるされていると実感することであり、愛情深く受け留められているという安心感」

 

 「復活」=「イエスが常に私たちのそばに寄り添って、一人ひとりを名指しで呼んでくれるという事態」(p.170)

 

 「古代人の感覚では「高いところに行く」のは、神の元へ確実に到達することでしたから、「天に昇る」ことは神とともに至福の時を味わうことに他ならず、いのちの豊かさの状態へと完全に至ること、つまり人生の最終ゴールに到着することです。古代人は口では決して言い表せない神のいつくしみの出来事の深みを何とか形にするべく、昇天という神話的な象徴を創出しました」(p.176)

 

 「御父の右の座に就く」=「御父の想いをあますところなく忠実に実現したがゆえに御父と等しい尊厳をもつ圧倒的な慈愛の持ち主として確かに認定されているという事実を指します」(p.176)

 

 「再臨」=「御子イエス・キリストを遣わしてあらゆる人間を支えるという御父の壮大な救いのわざを責任もって締めくくるのが再臨。御父は一度始めたことを決してほっぽらかすことがありません。最後まで見守り続けます」(p.177)

 

 「「神の裁き」とは、虐げられて落ち込んでいる人の尊厳を回復することに他なりません。つまり、この世の権力者たちの横暴によって切り捨てられているあらゆる人の立場を取り戻す恵み深い公平なとりはからいが「神の裁き」です」(p.180)

 

 「神のみことば」=「神が私たちとともに生きてくださるという恵み深い事実」(p.181)

 

 「聖霊」=「神の愛情深い想い」(p.186)

 

 「聖霊が降る」(聖霊降臨)=「神が全力を尽くして人間のほうへと歩み寄る」(同)

 

 「神の国」=「神のいつくしみが広がる状態」(p.187)

 

 「聖なる教会」=「神との親しさを保って生きるキリスト者の集まり」

 

 「普遍の教会」=「あらゆる相手に対して心を開いて、ともに生きようとする公的な奉仕に徹する集まり」

 

 「自分の十字架を背負う」=「自分のどうにもならないほどの弱さを、すなおに認めて、主に助けを求めて歩みなおすこと」(p.200)

 

 「からだの復活」=「あなたのすべてが決して失われることなく大切にされている」という事実を保証する(p.223)

 

 「永遠のいのち」=「自己中心的で自分のことしか考えられない身勝手な自分が、「相手のことを大切にできるような状態」」(p.230)

 

 「永遠のいのち」=「人間が神と一緒に安らぎを得る状態」

 

 「道・真理・いのち」(ヨハネ14:6)=「道はイエスの生き方、真理とはあらゆるものを存在させる神の恵み、いのちは躍動感あふれる愛の力」(p.233)

 「奇跡」=「人間が神のいつくしみにつつまれた状態」「神の恵みに支えられながらの人間の自己回復の出来事」(p.238)

 

 「永遠のいのち」=「何があってもあなたを棄てない、常にいっしょに歩みつづける」という神の愛情の想い」(p.239)

 

 「塩でありなさい」=「神とともに生きる人間でありなさい」(p.241)

 

 「終末」=「神の愛の完成」「すべてが愛に満ち、ゆるされ、神のやさしさがすべてをおい、つつみこみ、本当の安らぎが実現する」(p.242)

 

 「アーメン」=「神による人間に対する全幅の信頼の表明」(p.254)

 

 「霊性」=「霊的な本性」「神のいつくしみの力が備わっていること」

 

 「啓示」=「神が人間に対して徹底的に自分をさらけ出して体当たりで与え尽くすこと」(p.306)

 

 「信仰」=「どんな状況でも決して諦めることなく、徹底的に神に信頼して前進する人間の態度」(同)

 「イエスは人びとの面前で自らのことを「人の子」と呼ぶことによって「あなたがたと、とことん、ともに生きてゆく」という熱烈な愛情の想いを力説しました。つまり、そばに確かに寄り添う「ひとりの人間となること」(自分から積極的に相手の隣人になる)がイエスの姿勢だったのです」(p.325)

 

 「神学」=「尽きせぬ想いを心に秘めて「相手」(神、隣人)と渡り合う日々の営みを現固化する試み」(p.338)

 「聖書」=「希望の物語」をつづったメッセージ集(p.361)

 

 「聖書」=「神からのラブレター」「愛情をこめて、ものがたること」

 

 「天国」=「自分が最も自分らしく活き活きと生きている状態のことであり、自分がまるごと受け容れられて全部肯定されている状態」「神とともに永遠に生きている状態」「神を信じて暮らしているときに、すでに私たちは天国の状態に入り始めています」(p.366)

 

 「天国」=「神とともにいっしょに生きている状態」、「地獄」=「自発的に神に反抗して、神の呼びかけを拒絶して、自分から心を閉ざして自滅してゆく状態」(p.371)

 

 「復活」=「イエスがあらゆる最悪の状態をはねのけて決然と立ち上がった=神がイエスを決して見捨てずに再び尊厳を回復してくださった、という究極的な真実」(p.374)

 

 「宣教」=「神のいつくしみ深い想いを伝えること」

 いかがでしょうか。読む人にとって、まだ冷たいとか、はんたいに、解答しすぎとか感じられるものも、いくつかあると思いますが、ほどよく解凍されているものがたくさんあるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、解凍しようという志し、試みがすばらしいですね。

https://www.amazon.co.jp/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1%E3%82%92%E8%A9%A0%E3%82%80%E2%80%95%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%A8%E5%B1%95%E6%9C%9B-%E9%98%BF%E9%83%A8-%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82/dp/4907991045/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1O6IZH0CNT606&dib=eyJ2IjoiMSJ9.58ZbFdgDIVELPUnr83rSj4E78YDBgDJ9mRgBazSsbMR4bT3j5oCuhcmipHVdKKn3yaQqQgNQRwjdoTiHt18mn3PVkF-inTGQNIGV8NwAHTq680q9FY6l1gUroSP3PtBrFXMG3PPEPBt5-ciYntldQWVw_LZNGso6ul7NHg2W4rGHX1IXBj90MdL4XNXRR4piUIBaV48na4_7dGWskPoJTzTFxZqH6xdxYF80Cz2XxJ3m0Q_-nLhdRk8UPyzURUWVbWl2s5NbcCf1Lj8qZBCum4nf-o9RWxxaDmost7pxJUo.-MFLb-p7E6XsT0cljNtZljp7yXEDZFxjIB5FZZrxiio&dib_tag=se&keywords=%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1%E3%82%92%E8%A9%A0%E3%82%80&qid=1714977726&sprefix=%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1%E3%82%92%E8%A9%A0%E3%82%80%2Caps%2C168&sr=8-1

788 「神から見捨てられる苦しみからの救い」 ・・・ 「ヨブ記を読もう 苦難から自由へ」(並木浩一、2024年、日本キリスト教団出版局)

 ヨブ記42章6節にはさまざまな訳があります。

 

「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(新共同訳)

「私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます」(聖書協会共同訳)

「私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」(新改訳2017)

 ところが、並木先生はここを

 

「私は退けます、また塵灰であることについて考え直します」

 

と訳しています。

 

 ここが、本著の最大ポイントのひとつでしょう。

 

 最初の三つの訳においては、「塵と灰」は、「わたし/私」が「悔い改める」際の「場所」ですが、並木訳では「考え直す」の「目的語」になっています。

 

 つまり、三つの訳では「塵と灰の上で悔い改める」と訳されている旧約聖書ヘブライ語原文を、並木さんは「塵や灰であることについて考え直す」と訳しています。これは、「自分が塵や灰に過ぎない存在であることを忘れていたことを反省して、もう一度振り返る」という意味だと思われます。

 

 創世記18:27には、アブラハムの「塵や灰にすぎない私ですが」という言葉があります。並木さんによると「アブラハムはこの言葉によって、自分が被造物にすぎないが、神に対して人格的に応答できる恵みを感謝」(p.212)しており、ヨブ記の42:6は、「この感謝を引き継いでいる」(同)のです。

 さらには、「「塵灰であることについて考え直します」とのヨブの反省は、彼一人の被造者としての限界と被造者への恵みの告白であることを超えて、世界と人類の被造性を考えるという課題につながります」(同)と並木さんは言います。

 

 では、この本の副題「苦難から自由へ」にはどういう意味があるのでしょうか。

 

 「ヨブはこの世界の悲惨な状況は神の放置がもたらした結果ではないかと疑って神に抗議しましたが、結局、世界にはびこる不正義は被造者の責任であることを教えられました。神がそれを糺そうとして直接にこの世界に介入するならば、この世界に生きる人間は自由な決断と行動の意味を失うでしょう」(p.220)。

 つまり、わたしたちは、神はなぜ自分や世界に苦難をもたらすのか、それを放置しているのか、という思いを持つのですが、苦難は神ゆえのことではなく、他者に苦しみをもたらす人間の責任であり、そのような事態の解消に神は介入せず、人間が与えられた自由において責任を取るべきである、責任を取るために自由が与えられているということではないでしょうか。

 

 「彼らは貧しい者たちを、暮らしの道から押しのける。この地の困窮した人々は身を寄せ合って隠れている」(ヨブ記24:4)。

 

 このようなヨブ記の記述について、並木さんはこう記しています。「古代において、ここまで労働者の側に立ち、現実に即して彼らの悲惨をリアルに描いた言語作品は他にないでしょう」(p.120)。人間のこのような苦難、悲惨を、わたしたちは神に押し付けるのではなく、みずからの自由において克服しようとしなければならないと。

 

 ヨブ記の40章以降、ヨブは神に強く叱責されていますが、この叱責の意味を並木さんはつぎのように述べています。「神はその弁論において創造者の意図に挑戦したヨブを確かに叱責しました。しかし神は、ヨブに罪ありと宣言したでしょうか。そんなことは何一つありません」(p.208)。むしろ「神の弁論は、神が自分の無自覚の咎を罰しているのではないかという根本的な不安からヨブを解放しました」(同)。ここにヨブの救いがあります。

 

 「神は被造者のひとりであるヨブに対して、ご自分を現しました。神ご自身がヨブに直接応答なさったのです・・・ヨブにとってはあり得ない名誉でした・・・神は叱責のかたちをとって、創造と創造世界における神の知恵と恵みをヨブに見せたのです。神にとって、ヨブの罪などは言及に値しないものでした」(p.210)。

 「苦難の中にあるヨブに神が直接応答したことによって、ヨブの尊厳が確保されました。彼は御心の内に置かれていたのです。このことを悟ったヨブは、公義を無視する者として神を批判せざるを得ないという苦しみから解放されました」(p.221)。

 

 「神さま、どうして?!」と叫ばないではいられない出来事が人生には何度か起こりますが、神を根本の支えにする人びとにとっては、この叫びの方が出来事そのものよりも、大きな苦しみでもありうるでしょう。けれども、ヨブは、この苦しみから解放された、と著者は言うのです。


https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%82%E3%81%86-%E8%8B%A6%E9%9B%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%B8-%E4%B8%A6%E6%9C%A8-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4818411558/ref=sr_1_1?crid=16V2BRVG59OM7&dib=eyJ2IjoiMSJ9.PyKhwnxWHo954fZrzn7UEUIhvm7XGyMXpByrkoyzNTT6qzbIBWhZmlvClFfbU2vJ05BBjyW4c8eO2SKqpiOR_fViq9zhkkgFjm8Vh5QPZjvzvLSvSHCDUpZYQHMeCbxJYM1VAjfpQOqvM3JvpmTMAe2T21yMkqBXsgMA58Vw9r9otQ5UbIOFAukLTUa5fwksLMvyI-fKvRJlTzusNCmmhhPTUzeIT3E1tKJAakfN1cT3FYElaOngOU04KBlGsW8Xasqv9MZAcrEO5qd6rxq-w1lTFylXtYSnK07pWm3NO5Q.0SyPBy1Z9G6zo7zBbNC8IefSPcvCBpKDjjio5NWEEus&dib_tag=se&keywords=%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%82%E3%81%86+%E8%8B%A6%E9%9B%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%B8&qid=1714684366&sprefix=%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98%E3%82%92%2Caps%2C162&sr=8-1

787 「剣を鍬(くわ)に、槍を鎌に」 ・・・ 「世界で最初に飢えるのは日本  食の安全保障をどう守るか」(鈴木 宣弘、講談社、2022年)

 日本住民の生活の安全を守るには、戦闘機一機の購入費用を、農業支援に回したほうがよい、と著者は言う。

 

 住民が安全な食料を口にするためには、農作物は自由市場の商品ではだめだ。消費者に安全な食料がそんなに高くない価格で届き、かつ、生産者の収入が保証されるためには、国の予算から支援がなされるべきだ。そうすれば、アメリカ産の危険なものを食べ続けることから解放される。

 

 「日本政府が」日本の「農業を軽視する背景には、アメリカの意向がある。アメリカ政府は、多国籍企業の意向で動いている。その多国籍企業の中には、農作物を日本に輸入しようとしている企業も含まれている」(p.60)。

 

 「日本の政治家はアメリカの意向に逆らわない」。日本が「食料自給率を上げて、国民の命を守るということは、アメリカからの輸入を減らすということを意味する」(p.61)。

 だから、日本は食料自給率を上げられない。けれども、戦争や災害などでアメリカなどからの輸入が減れば、タイトル通り、日本は「世界で最初に飢える」のだ。

 

 アメリカなどの生産地で「「危なくて食べない」ようなものまで、日本向けなら大丈夫ということで、輸出されてしまう構造ができている。我々は、そうした食料を、知らないうちに食べているのである」(p.71)。

 つまり、日本の食糧の安全危機は二重である。ひとつは、自給率が低すぎる、輸入が止まれば飢える。今は輸入して豊富に食料があるように見えるが、それらには産地では「危なくて食べない」ものまで含まれている。

 では、どうすればよいのか。

 「食料を含めた大枠の安全保障予算を再編し、防衛予算から農業・文科予算へのシフトを含めて、食料安全保障確立助成金を創設すべき時がきている。いざというときに食料がなくなってもオスプレイやF35をかじることはできない」(p.155)。

 いにしえの預言者の言うとおりである。

 

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)

 「消費者の行動が世の中を変える原動力になる。食の安全や食料安全保障を取り戻すためには、日々の買い物の中で安くても危ない食品を避け、少しだけ高い地元の安心・安全な食品を買うこと、それだけでいい・・・私たちは、リスクある食品を食べないことで、グローバル企業などの思惑を排除することができる。安心・安全な食品を食べることで、自然環境や健康を大切にする生産者を応援することができる」(p.180)。

 軍事出費を減らし、農業支援にまわし、「地元の安心・安全な食品」を高くなく買えるようにする政治にしなければならない。

 

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E9%A3%9F%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E5%AE%88%E3%82%8B%E3%81%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8/dp/4065301734/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=33D9KU3QUXNTR&dib=eyJ2IjoiMSJ9.2EYBICcJpMdRh8jEJ3wKGDZrnJgQhVcCRkjH8wiVSiSZPxhYc0AeYEiPXNk8G6Xdz2WF_q9jV88iAq8X-wDst91zwC6r8o-0QYN9_7D4TVI1xQmx0wA94YVHSZzioA8OLNbAEhf6-NhghHhCJLvAVl8r-KCruec5on0PbW7q4TdQ7RYXad5rOlAjwgTjTTDsYigH-POdJ0pysJprUs6_oK3V2021FZHg7iKqTcDcOMHEr21JmTT4e7VvNt_liOsU.t8bBDI37S1RKGZs8nhMrTiDZ6c4o6T2W9zNCYfISFVY&dib_tag=se&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC&qid=1713160809&sprefix=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AB%E9%A3%A2%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%2Caps%2C172&sr=8-1

786 「ひとつの考えにこだわらず共存、自己創造」・・・「100分de名著 偶然性・アイロニー・連帯 ローティ」(朱喜哲、NHK出版、2024年)

 哲学とは何でしょうか。と、哲学の入門書などにはいろいろ書いてありますが、最近、淡野安太郎「哲学思想史」を読み始め、さらに、「100分de 名著」のこの巻の最初の方にある「西洋哲学の歴史」という項目を読んで思ったことは、ぼくにとって、哲学とは、哲学や哲学史の本とされているものに出てくる思想のことなのだな、ということです。

 

 「デカルトは・・・「存在」から「認識」へと哲学の主題をスライドさせたのです。この認識論を発展させ、人間は何が認識できて何が認識できないのか、理性の限界はどこにあるのかを確定しようとしたのが、近代のカントです」(p.11)。

 なるほど。デカルト登場までは、プラトンとかアリストテレスとかキリスト教神学者たちが「普遍」とか「神」とか、そういう「存在」について考えていたということですね。

 では、ローティさんは何について、あるいは、何を考えたのでしょうか。

 

 ぼくがこの本を読んだ限りの印象で言いますと、世界や人間について語る言葉で、これが唯一の正解というものはない、それぞれの回答があるだけだ、回答はいろいろ言い換えられる相対的なものだ、それなのに、そのどれかを正解だと主張するところに暴力がある、だから、人権も唯一の正解的に言い表された人間の「本質」に基づくのではない、だからと言って、人間が他者によって侵害されて良いわけではない、といった感じです。

 今、上の段落で「言い換え」と言いましたが、これは「再記述」とも「言い換え」られます。「再記述は、抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の“襞”を増やしていくことだと言えます」(p.29)。

 たとえば、聖書の創世記は何を物語っているのでしょうか。この人はこうだと言う。あの人はああだと言う。しかし、どちらかが唯一の正解ではない。たがいがたがいの再記述だと認識しあう、ということです。その記述に賛成はしなくてもよい。でも否定もせず、この人はこう記述するのだな、ということだけを認めるわけです。

 けれども、これは、他者の存在の承認だけでなく、自分をゆたかにすることにもなります。「ローティが言うように、そうした確かさへの執着を放棄することで、私たちはことばを使ってより自由に自己創造ができるというポジティブな面も開かれてくる」(同)。

 同意はできないが否定もしない、という姿勢をさらに深めて、こういう考え方も自分のポケットに入れておこう、襞にしよう、とすると、自分が小さく凝り固まらずに自由にゆたかになれるのではないでしょうか。

 

 「「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる」(p.32)。

 意見の違う相手にあわせなくてもよいが、相手を攻撃する必要もない、その意味で互いに保護し協力しあう、というのです。

 「自分にとっては「ファイナル」と思えるボキャブラリーさえも、よりよくなる可能性に開かれたものだと考えることが、まさにアイロニーだということになります。ローティは、アイロニストは自分の終極の語彙が絶対のものだとは思っていない。なぜなら事実、他人の終極の語彙に感銘を受けることができるからだと言っています」(p.37)。

 アイロニストとは皮肉屋ではなく、自分だけが正しいと言って我を忘れるようなことのない人のことでしょう。「ファイナル」や「終極の語彙」とは、精一杯考えて、自分の今の時点ではこれが最良だと思っているというもののことでしょう。しかし、それが絶対ではないと。他にもありうるし、変わりうると。

 そうすると、人間の本質なども言い表せず、本質が言えないなら、人間の基本的な権利なども言えない、人間には皆人権があるなど「本質」的な言い方はできなくなりますが、ローティはこう言います。

 

 「そうは思いながらも、人が受ける苦しみや、人類がなしうる残酷さというものが減少することを望む、それは両立しうる」(p.43)。

 人間の「本質」を正しく唯一の方法で規定することはしないが、人が残酷な苦しみを受けることが減ることを望むことはできる、というのです。

 

 このようにローティの得意技は、矛盾するように思えるかも知れないものの両立です。

 

「一人の人間のなかには「正しい建前」と「正しくない本音」がある。それらは直接的には矛盾するケースがあるけれど、それでもその人のなかで併存していてもいいのだ」(p.49)。

 「正しい建前」は公的な場で、「正しくない本音」は私的な場で、ということになります。公的な場と私的な場での言動が矛盾していても、それは、併存なのだと。

 

 ところが、インターネットですと、私的な場と思い「正しくない本音」を吐いたところ、それが公的なものとみなされ、ぼくはひどい目にあったことがあります。嫌な上司を公的な場で罵倒したわけではなく、私的な場でやれやれと言っただけなのに、相手が反論できない場で非難するのはどうのこうのと・・・

 「複数のボキャブラリーをある絶対的な基準に照らし、どちらがすぐれているかを判定するようなことはできない、というのがポイントです。ボキャブラリー同士は、どちらがより真に近いかという意味で優劣をつけられるものではない。つまり、人間や社会もそういうものだ、ということです」(p.56)。

 そうなのです。宗教なども、とくに、歴史の長い宗教などでも、じつはそうなのですが・・・どうも・・・

 「われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない」(p.86)。

 人間を「本質」などでは来てしないけれども、「われわれ」を「わたしの家族」「わたしと同じ意見の人」「わたしと利害をともにする人」から、「文化や意見や利害が異なる人」にまで拡張することによって、人の間の残酷を回避するというのです。

 

 「文化の違いや宗教の違いは、一見すると大きな違いに思えます。しかしそれがどれだけ違っていようとも、そこに苦痛を受けている人が存在する、辱めが存在する、そこに対して残酷さを行使するようなわれわれの加害行為がありうる、こうしたことに思いを馳せることによって、「われわれ」という範疇を少しでも広げることが可能になるのではないか、ローティはこのような考えを示しています」(p.100)。

 「ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を改訂へと開くことに促す点にこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがあるからです」(p.106)。

 このような観点から、ローティは、特定の哲学者の思想よりもフィクションやジャーナリズム、エスノグラフィーを重視しますが、本著の著者の朱さんは、一人の哲学者にも思想の変遷があり、それを追うことには、「本質」「正解」に執着しない思考法に有益だと提起しています。

 

 ならば、哲学とは哲学史のことだという考えも、的外れではないかもしれません。本質ではないかもしれませんが、言い換えのひとつには並べられるのではないでしょうか。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%80%8E%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%B8%AF%E3%80%8F-2024%E5%B9%B42%E6%9C%88-NHK%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88-%E6%9C%B1-%E5%96%9C%E5%93%B2/dp/414223160X/ref=sr_1_2?crid=1PFOUXTW7PMJ0&dib=eyJ2IjoiMSJ9.eaQxAdnbMb6JdRvkPkq-8TRq21R-nczLDwqQkR-MQVr_QBHL4wwj1p2GGkA9h0-wOBPQskG--I--GUrW6Q6iexGODgAz7WWg__MYiMY8Af-jnfP8AKy7oCx5De8OzWHPupAcSOF7oxCQus0OlHq7zg.2T7CAX-_U-r57uFnR7JZp3tNnmXZjC957NQhhDeoaf0&dib_tag=se&keywords=%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7+%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC+%E9%80%A3%E5%B8%AF&qid=1712801548&sprefix=%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7%2Caps%2C173&sr=8-2