誤読ノート980 「生き方を貫くふたりのさまよう音楽家」
「私の「風速計」」(崔善愛、2026年、いのちのことば社)
ぼくは1960年生まれで、4歳から19歳まで北九州市の小倉で過ごしました。最近読んだ「韓国について知っておきたい30のこと」の著者は、ぼくより数年若いようですが、やはり、高校までは小倉にいたとのことです。
そして、本書の著者の崔善愛さんも、おそらく近い年齢で、高校までは小倉にいたと思います。
崔さんはピアニスト。「週刊金曜日」の編集委員なども務めています。本書には崔さんが「
週刊金曜日」に掲載した時事エッセイ、そして、ご自身や父である崔昌華牧師の歩みについての文章が収められています。
崔昌華牧師の著書や、ジャーナリストによる評伝は読んだことがありましたが、本書にはそのダイジェスト的な文章があり、有益でした。
しかし、崔善愛さんの著書を読むのは初めてであり、とても意味ある読書となりました。
「週刊金曜日」の2022年5月27日、1378号に掲載された「国家に左右されないもの」では、岸田政権の歴史認識を短く批判したあと、次のように続きます。
「私は、在日韓国人一世のハルモ二(おばあさん)たちが集う教会の讃美歌を聴いて育った。朝鮮語が母語だったハルモニらが歌う讃美歌は、独特なこぶしが入り、オルガンで伴奏をしながら苦笑したものだ。だれが教えるわけでもない。ハルモニらは、コラールの格調ある讃美歌の旋律やリズムを微妙にずらしたりゆらしたりして、朝鮮民謡調に歌いあげてしまう。
植民地時代、ハルモニらは朝鮮半島で日本の歌を学校で教えられたはずだが、歌いぶりは「同化」されないまま海を渡り、日本で暮らして半世紀以上。そんなハルモニたちの歌を聴いたことがあるだろうか」(p.62)。
岸田政権のみならず、日本人のぼくの歴史認識が問われます。
2023年3月3日、1414号掲載「促される出産」では、自然な陣痛を待つことが医師の都合で許されなかった経験が述べられ、「出産するかしないかを、医師の都合や、ましてや時の政府の意向などで左右されてはならない」(p.75)とし、優生保護法が問われています。
2023年8月18日、1436号掲載「外国人は市民じゃない?」では、「外国籍だから外国人」と分類されることの違和感に始まり、「私のような在日「外国人」にとって地域社会でのよりどころは、「市民である」という自覚だ」(p.82)と述べられています。
たしかに、国籍を問わず「市民」「住民」「生活者」の存在や権利を、日本の行政や日本国籍者はもっと認識すべきだとぼくも考えます。
2023年10月27日、1446号掲載の「鉄のゆくえ」には、「ヤマハの前身・日本楽器製造も戦時中は軍用機のプロペラをつくっていた。楽器製作の高度な技術が生かされていたようだ。戦後、ピアノは豊かさの象徴、一家に一台のステータスシンボルであったが、今は色あせてしまった。ピアノが売れない時代、また楽器ではなく戦闘機をつくることにならないだろうか」(p.87)とあります。
崔善愛さんというピアニストに顕著なこのような社会的嗅覚は、あとで出てくるショパンとのつながりにも通じるものです。
2024年6月14日、1476号掲載の「私の「一四年間」」では、「入管法」改悪が論じられています。
「今国会で「永住資格」の取り消し事由を拡大する「入管法」の改悪案が審議中だ。
私は日本で生まれ育った永住者だが、この法案には「在留カード」の不携帯だけで永住資格が奪われるなど、外国籍の永住者にとって死活問題が含まれている。永住資格はそれほどまでに軽いものなのか」(p.98)。
「永住資格」という文字を使うのだから、「生涯、日本に住む資格」であるはずなのに、「在留カード」を持ってくるのを忘れただけで住めなくなるのでは「永住資格」の文字に値しないのではないでしょうか。学生証を忘れて通学したら、退学になるでしょうか。
2025年8月1日、1531号掲載「子どもたちへ」は、参院選での「日本人ファースト」での連呼を聞かされる苦痛から始まり、「私は韓国名の表札を出しておこう。日本人ではなくとも、ここに住んでいる人がいるということを子どもたちに知らせるために」(p.121)と結ばれています。
2025年11月21日、1546号掲載の「国家って……」は、高市内閣の出現、その「外国人政策」への震えに始まります。
そして、最後は以下のように結ばれています。
「日本で生まれても「帰化」せず、韓国籍を維持する私のような、国にからめとられない者は、たとえば社会保険料の支払いが遅れた、「君が代」強制に反対したなどという理由で、永住資格が取り消され、国外へ追放されることもあり得る。実際、指紋押捺拒否しただけで、二十六歳のとき、再入国不許可処分を受け、事実上の「国外追放処分」を受けた。
私の周りには思いやりのある人たちがいるのに、国家はなぜこんなにも冷たいのだろう」(p.127)。
このような言葉を読むと、崔さんは日本のすべてを拒否しているように誤解する人もいるかもしれませんが、そうではありません。
崔さんのお父さん、崔昌華牧師は在日一世ですが、崔さんは「父から、強制連行の歴史を聞き、日本に同化するな、民族に誇りを持って、と言われれば言われるほど、「無理だよ、アボジ」という想いがつのった」(p.180)と記しています。
「日本に住み、日本語を話し、どうやって同化せずに日本で生きていけるのか、不可能だ、同化は自然ななりゆきで、植物が環境に同化するように、意識してもしなくても生物として社会に適応してゆく。それに抗うとすれば、息も殺し、人との接触もせず、閉鎖された空間に自分を閉じ込めないかぎり、無理だ、そう思った。
朝鮮半島で生まれ、そこに根っこがある一世。だからこそ「民族」という言葉が言える。日本しか知らない者にとって、「民族性」という言葉こそ、残酷なものはない。そう思った」(p.180)。
とても正直だと思いました。けれども、これはとても深みのある正直さだと思います。日本人であるぼくが崔さんは正直だなどと感じるレベルではない、重みと歴史のある正直なのではないでしょうか。
なぜなら、崔さんの言葉には続きがあるからです。
「それでも裁判所では強気なことを述べるしかなかった。妹の「押したくない」という決意には、いつまで私たちは指紋を繰り返し取られるのか、「朝鮮人は犯罪者」というレッテルを何とかしたい、という漠とした願いがあった。そしてあのころは、真摯に訴えれば、日本社会や裁判所はわかってくれるはずだと思っていた」(p.180)。
けれども、日本社会や裁判所はこの思いに応えませんでした。
しかし、崔さん自身は自分の訴えに誠実であることを貫いたのではないでしょうか。
「裁判それ自身によって、私は、自らのゆくべき道が定められていった。というのも、裁判所で語った自分の言葉がそっくりそのまま自分を縛ってゆく。法廷で立派なことを言えばいうほど、自分はその言葉どおりに生きてみせなければならない。もうあとには引けなくなった」(p.180-181)。
本書における崔さんの言葉も、裁判所での自身の言葉への誠実さが貫かれていることを示していると思います。
「音楽は国境を越える、などというフレーズにさえ、私は怒りを感じるようになってしまった。日本と朝鮮半島を見つめるとき、私には「国境を越える」というその意味すら、ゆがんで見える。「国境を越えられて侵略された者たちへの痛み」のほうが課題であって、今、「音楽は国境を越える」とは口にしたくない」(p.186)。
「音楽に国境はない」という言葉に普遍性や美しさを感じてしまっているぼくたちには、崔さんのこの言葉は驚くべきものですが、じつは、崔さんはショパンの音楽と生き方に自身との重なりをおぼえているのです。
ショパンの祖国ポーランドは、当時、周辺の大国によって分割され、彼が育ったワルシャワはロシアの支配下にありました。国外に出ることにも当局の許可が必要でした。ショパンは、祖国ポーランドの舞曲や民俗音楽に根ざした音楽をつくりました。そして、祖国に二度と帰れないかもしれないという不安を抱きながら、1830年にポーランドを離れます。その直後、ロシア支配に対する蜂起が起こり、翌年には鎮圧されました。ショパンは、その後、生涯祖国に戻ることなく、主にパリで暮らしました。
崔善愛さんも、1986年、留学のために日本を出国する際、指紋押捺を拒否したことを理由に再入国の許可を得られませんでした。生まれてからずっと暮らし、家族も住んでいる日本に戻れるのかという不安を抱えたまま、アメリカへ向かったのです。
崔さんはショパンの「このことを知り、私のショパン観は覆された。巷で思われているような、単に繊細で甘い、ロマンをうたうだけの音楽ではない。ショパンは音楽で抵抗していたのだ。独立と解放を念じながら「英雄ボロネーズ」を書き、フランスで亡命者として生き、苦悩したショパン。ショパンの悲しみと怒りは、植民地支配を受けた世界中の人々とつながら普遍的な声だった。私はこのときはじめて、ショパンと自分がつながった。
帰る場所も拠り所もない、さまよいながら、自分の生き方を貫く人々は世界中にいる。だからこそ在日は、普遍的な存在になり得ると思う」(p.189)。