誤読ノート679 「今は時間の通過点か、それとも、頂点か」
わたしたちは過去を思い出し、未来を想像する。けれども、思い出し、想像するのは、いつも今だ。思い出す時、時計の針が過去に戻っているわけではないし、想像する時、未来にいるわけでもない。
わたしたちはいつも今にいる。けれども、考える対象は、過去であったり、未来であったりする。わたしたちは、今に集中できず、過去や未来に気持ちを散らしてしまう。授業中に、昨日観た映画のことや、放課後会う人のことが思い浮かんでくる。
しかし、過去や未来が今に凝縮しているとも言える。今は、過去と未来から成りたっている。わたしたちは生きているのはつねに今だ。あ、今わたしは過去を生きている、というのは矛盾だ。過去を生きている(と思う)のも今だ。つねに今だ。
けれども、過去、現在、未来があるという考えの方が便利だ。60歳のわたしは、かつて15歳であり、死ななければ、将来75歳になる、と考える方がわかりやすい。実感に合う。
物語も、過去、現在、未来を使わなければ、書くことはできない。時間が一秒も流れない、今だけの、今この瞬間だけの物語は不可能であろう。
それは詩にしかできない。詩は今だけを、だからこそ、永遠を書くことができる。
本書の著者である僧は言う。「明日のために今日を生きているのでもない。今日は今日、〈いま〉は〈いま〉自身のために〈いま〉を生きている」(p.65)。
イエスの言葉が思い出される。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
「共時的時間(信仰が開く永遠の時間)が、通時的時間の亀裂から生み出され、過去と未来が同時に成り立つ。〈いま〉という時に」(p.46)。
イエスの言葉をもうひとつ。「時は満ち、神の国は近づいた」。「時は満ちた」と言っているのだから、「神の国は近づいた」は「神の国は今ここにある」という意味ではなかろうか。「神の国は、未来のいつか現れるのではなく、今ここにある」。これは、まさに、武田さんが言う「信仰が開く永遠の時間」ではないか。イエスが「満ちた」と言う時は、まさに、これに重なる。
「親鸞のイメージしていた「往生浄土」とは、A系列の時間をベースにした物語的表現であるが、その内実は、A系列の時間を超越して共時的時間を開くことだったのだ」(p.188)。
「A系列の時間」とは、過去、現在、未来という時間である。「往生浄土」と聞けば、「未来に浄土へ行くこと」だと思うが、それは物語的表現である。親鸞はそのような表現を使いつつ、じつは、今、ここに開かれる浄土を述べている、というのだ。
「〈いま〉という時間は、宇宙がはじまってから立ち現れた過去をすべて背負った「零度の〈いま〉であり、宇宙が終わるであろう未来を包含した「零度の〈いま〉である」(p.199)。
今には、自分の過去、未来だけでなく、宇宙のそれが満ちているという。今は永遠だ。
「読者が、作者の「唯一の正しい意図」が作品の中にあると考えることは間違いである。そこに〈ほんとう〉の意図はないのではないか。むしろ読者と作品との間に〈ほんとう〉が生れるといったほうがいい」(p.202)。
「宗祖を絶対に正しいひととすると、その弟子たちは劣等なものとなる。その発想は劣等史観である。実は、師と弟子との出遭いは、同質のものが媒介しているのである。優等なものから劣等なものに受け渡されるものではない。同質のものなので・・・師と弟子という人間的な立場を超えて共鳴し合うことなのだ」(p.205)。
今を生きるAは、過去のBから学び、未来のCに伝える。過去、現在、未来という時間では、そうなる。しかし、Aの今において、Bの過去とCの未来が共鳴している、と考えることもできる。
歴史は進化する、未来に善きものが来る、と考えるのと、今、すでにここに過去と未来が充溢している、と考えるのと、どちらに希望があるのだろうか。未来の善きものが現在を照らしている、港に向かう舟は灯台の光に照らされている、という信仰もある。