映画「男はつらいよ」シリーズ全50作を、ぼくは二回通して観ている。一度目は、二年前、心が死を味わっているさなかで、救いを求め、iPadを買い、寝転がって、一か月で観た。二度目はこの夏、やはり、前回と同じタブレットで、冷房を利かせた小さな自室で。
ぼくの師、S先生(御前さま?)を真似て観たのだ。先生はおそらく映画館とVHSで、それぞれ全作観ておられると思う。
さて、本著の著者の前作「寅さんとイエス」を読んだことがある。映画50本を観る前だ。本の中身はまるで覚えていない。難解な部分が何か所かあったような気がする。
そのリベンジの意味で、本著を手に取ってみた。
「一人の美しいドミニコ会のシスター」(p.21)。寅さんはシスターはひとりでしたが、何十人もの美しいマドンナと出会いましたね。
「全四十八作「非接触・非破壊」の物語である。非接触とは「触らない」ということであり、非破壊とは、誰か他の男性が同じ女性に恋をしていると知った時、ライバルとして競い合うのではなく、その男の恋が成就するよう、むしろキューピッド役に転じる生き方である」(p.25)。
寅さんがこうなら、イエスはどうか。「「我に触れるなかれ」・・・ギリシャ語の命令法の時制を考慮して訳すと、「触るなかれ」ではなく「いつまでもすがり続けてはいけないよ」となる。このニュアンスこそ、寅さんとイエスに共通する、人間としての色気である。言葉を換えれば、観念の余韻に浸るのではなく、さあ起って、観想の実を他者に伝えよ、とのメッセージである」(p.31)。
たしかに、映画で、寅さんはリリーと同じ屋根の下に住んでいたことが二度ほどあるが、部屋は別だった。まわりは、ふたりは夫婦なのか、としきりに気にしていたが。ふたりの関係も、「さあ起って、それぞれ旅をしよう。旅先で、はちあうこともあるだろう」というものだったのかもしれない。
「寅さんの場合、二十年にわたり故郷から離れて生きてきたのであるから、いわば真の意味で必要な「甘え」の欠乏状態であり、故郷と家庭への帰還は、寅さんの成長を促す上で、欠如した甘えを補う場となったに違いない」(p.46)。
故郷でも家族にも疎んじられたイエスはどうか。「はたしてイエスに甘えの場は存在したのだろうか。然り、存在したのだ。それこそまさに「アッバ」という言葉である・・・イエスの時代・・・神に向かってアラム語の幼児語で、アッバと呼びかける者など一人もいなかった・・・生涯にわたり、イエスが神に「アッバ、父さん」と呼びかけた事実こそ・・・まさにイエスの離れ技である。その離れ技の中に、イエスと神との想像を絶する深い交流、素朴な信頼感、底知れぬ安らぎを感じ取ることができる。ここにこそ、イエスの真実の憩い、奥深く隠された「甘え」の場があったと言って過言ではない」(p.49)。
寅さんにとって、おばちゃん、おいちゃん、さくら、ひろしらが「アッバ」だったのか! この人びとへの甘えゆえの悪態、「おまえらは冷たいねえ」「おれなんかいない方がいいんだろう」の類は、寅さん流の「わが神、わが神、何故我を見捨てたもう」だったのか。