674  「すぐに答えを見てしまわない良心」・・・ 「良心の哲学」(齋藤かおる、2022年、檜書店)

 

 

 能の登場人物である卒塔婆小町を、カントやボンヘッファーと比べることで、「良心」を考察する力作。

 

 「カントやボンヘッファーの飛躍は、特定の局面における主体性の断念であるのに対して、小町の跳躍は、主体性の行使」(p.144)。

 

 「人間は、常に自らの良心の現象の妥当性を神的(絶対的)な何かに問い合わせつつ生きる存在へと切り縮められてしまう。良さ・善さ・好さを求める魂の営為は、生をめぐる選択から、生をめぐる問い合わせへと切り縮められてしまう」(同)。

 

 難問に直面して、問題集の巻末の「正答」や、この人は間違えないだろうという人(の言葉)に問い合わせるのか、そうやって、主体性を断念するのか、それとも、あくまで、自分で考え、選択しようとするのか。良心はどちらに属するのか。

 

 「もし、従来の良心論(主に西欧言語文化に根ざす良心論)の展開を、何かしら神的(絶対的)なものに問い合わせつつ、正しい選択肢(正しいと評価され得るように思われる選択肢)を探し求めて主体が主体自身を彫り削ってゆくような、主体による精神の自己縮減に例えるならば、小町の物語に触発されつつ構成する良心論の新たな展開は……一つの選択肢を主体的に掴んでゆこうと意志する主体が主体自身を創り進めてゆくような、主体による精神の自己塑像なのである」(p.148)。

 

 これまでの良心論は、いわば、何かに問い合わせること、何かを参照することは、「主体による精神の自己縮減」である。間違いを恐れ、正解したいがゆえに、自分で考えることを制限するからだ。それに対して、良心を深く考えていくには、「主体による精神の自己塑像」が必要だ、というのである。人の正解に頼るのではなく、正解を求めながらいつか正解を出すだろう自分を創り上げていくのだ。

 

 それには、「悪について考えること」「主体の不完全さについて考えること」「不完全さの中で経験する自由や愛について考えること」(p.154)が必要である。しかし、悪、不完全さ、自由や愛について考えるには時間がかかる。どこかにある「正解」を見てお終いにするのとはわけが違う。

 

 けれども、それは生きることそのものである。「その経験の中で繰り返し傷つき壊れながらも生と命への喜びと誇りを結実させてゆくこと、すなわち生と命のレジリエンス(resilience)を獲得してゆくことであって、与えられた生と命をまっとうしてゆくことである」(同)。

 

 レジリエンスとは何か。「個人のレジリエンスの具体的な形(逆境に対する柔軟な強靭さの保持)も、集団のレジリエンスの具体的な形(逆境に対する柔軟な組織的強靭さと組織的長期戦力の保持)も」(同)。

 

 レジリエンスは「回復力」とも訳されるが、この文脈では、「柔軟」「強靭」「長期」「保持」という性格を持っている。つまり、これは、正解を問い合わせることで主体性を減らすことではなく、粘り強く考え抜いて主体性を形成し維持することであろう。

 

 難問にぶつかり、すぐに答えを見たり、人に訊いたりすることと、時間をかけて柔軟かつ深く考えること、どちらが良心的であろうか。

 

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