この新書シリーズから著者が出しているもう一冊の本を読んだ後のノートを公開したところ、「あ、宇根さんだ」というコメントをいただきました。何冊も本を出しておられるし、「宇根豊さんってこの世界では知られた人なのだな」くらいにしか思わなかったのですが、今回、この本を読み終えて気づいたことがありました。それは、このノートの最後に書きます。
「田んぼは人間のためにだけあるというのはまちがい」(ⅲ)。田んぼに生きる、あるいは、田んぼから出て生きる動物、植物、さらには、それら生物の未来のためにあるということでしょうか。
「赤トンボもカエルも「農産物」「農業生産物」にすればいい」(ⅲ)。しかし、「農業商品」にすればいい、とは言っていません。
このような独特の問いかけから本書ははじまり、それらは本書全体に満ちています。
「農産物のおカネになる価値が本体であって、自然などのおカネにならないめぐみは副次的な価値である、という見方は正しいのでしょうか。私は、これこそが農の土台を冒涜してきた近代化思想だと思います。農は農の土台である自然に対価を払っていません。払う気がないから、自然が痩せてきたのではないでしょうか。むしろ近代化技術は、自然をタダで食い尽くしてきたのではなかったでしょうか。私が自然をもちだすのは、農は自然に支えられているのに、本気で自然を守ろうとしていないことに憤るからです」(p.130)。
自然に対価を払うということは、自然、動植物の生息環境を守る、自然を痩せさせない、ということでしょう。
「「生業」という言葉は、今では死語になってしまいましたが、もともとは作物を育てる営みのことです。人間と在所の自然の生きものたちがいっしょに生きていくために仕事をすることです。したがって、おカネにならない仕事も含みます。自分のためではない仕事も含みます」(p.195)。
農業のこのような側面をしっかり見て、行政は農民に給料を払ったり農業を金銭面で援助したりすべきではないでしょうか。
「百姓仕事が風景を「生産」していることを言い立てるのです。風景も立派な農業生産物だと、国民や政府や自治体に認めさせるのです。風景を支えている百姓仕事や百姓暮らしに、これ以上の効率を求めさせないようにするのです」(p.209)。
「自然や(田んぼなどの)多面的機能は、たまたま生じているように見えますが、じつは百姓仕事によって生み出されていた」(p.210)。
伝統芸能の継承者と同様の仕事であることを認め、行政が農民に手当てを出すべきではないでしょうか。そうすれば、効率、効率、と言わなくて済むかもしれません。
「棚田が平坦地の田んぼにくらべて、美しいと感じるのは、なによりも畦が美しいからでしょう・・・棚田は畦の面積が大きいから、高いから、目立つからです。そして、その畦がよく手入れているからいいのです。これが草が生い茂った畦やコンクリートの畦なら、美しいと感じるでしょうか」(p.215)。
「平坦地の村でも・・・棚田の村ほどではないにしろ、同じように畦を手入れし、田を作っているのです」(p.217)。
このふたつの引用に著者名のヒントがないでしょうか。