聖書誤読

583 「歴史的、神学的、哲学的聖書解釈が一人の中で協力しあう」 「内村鑑三 その聖書読解と危機の時代」(関根清三、筑摩選書、2019年)

副題にある「危機の時代」には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災が含まれる。 内村ははじめ「義戦論」を唱えた。のちに非戦論に転じたのではあるが。内村はまた、関東大震災は「天譴」つまり天罰であると論じた。 これらは内村の問題思想と…

479「先生になるには」・・・・・「せんせい。」(重松清、新潮文庫、2011年)

「泣くな赤鬼」という先生モノの映画を観たら、この短編集に原作が収められていると知り、手に取ってみました。タイトル通り、先生が出てくるお話しばかり。 「学校の先生って、生徒をほめてあげることが仕事だと思うけど」(p.218)。 ぼくも、時々先生をして…

266  「現世で宗教の平和理念を実現させることについて」

「創価学会と平和主義」(佐藤優、2014年、朝日新書) 佐藤優好きの同僚が「読み終えたからどうぞ」と譲ってくれた。「集団的自衛権に関する昨年の閣議決定を公明党が骨抜きにした」という宣伝句に少し惹かれてはいたが、自分では買うには至らないでいたとこ…

118  「社会活動と沈黙の中で汲み取られる霊性」

「牧者の務めとスピリチュアリティ」(ケネス・リーチ、2004年、聖公会出版社)スピリチュアリティとは、神の心がわたしたちの中に宿りわたしたちを生かすもの、あるいは、わたしたちが自分を超えて神という源を求めるときわたしたちの中に湧き出しわたした…

18 「救いは法外」 

神の国とは、たとえば、このようなものかも知れません。ある人に三人の子どもがいました。最初の子どもは歯医者さんになる大学に入りました。父は歯科医になるなら安心だと満足しました。ところが六年目の四月、突如失踪し、なんとか帰ってきたかと思うと、…

17 「近寄って、座って」 

ルカによる福音書10章には、「善いサマリア人」のたとえ話があり、それに続いて、マルタとマリアのエピソードが載っています。この二つの話には何かつながりがあるのでしょうか。 「善いサマリア人」のたとえ話では、「それを実行しなさい」(28節)、あるいは…

16 「ゆるめられた人なのに」 

「罪深い女なのに」(ルカ7:39)。ファリサイ派のシモンのこの視線は、この女性の全身を硬直させたことでしょう。「こいつはこんなやつなのに」「おかしいやつなのに」「わるいやつなのに」「だめなやつなのに」。 けれども、イエスは違いました。「この人の…

15 「悔い改めの話しなの」

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。これは、ルカによる福音書15:4-6の「たとえ話」につけられた「解説」のような言葉です。イエスは4節…

14 「無理にでも連れて」 

「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ14:23)。ここでいう人々とは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(14:21)のことでしょう。 目の見えない人を無理にでも連れていく。ここ…

13 「バラバラか様々か」

「バラバラか様々か」 使徒言行録2章に、イエスの弟子たちが集まっていると、激しい風が吹き、炎や舌のような形をしたものが一人一人の頭上にあらわれ、彼らはさまざまな言語を語るようになった、とあります。 この記事に基づいて、キリスト教会では聖霊降…

12 「弟子にするのではなく、友になる」

マタイ福音書の最後の数節は、イエスを信じない人に教えを伝え、洗礼をほどこし、信者とすることを、イエス自らが命じているように読まれることが多いと思います。けれども、はたして、そのような読みでいいのでしょうか。すくなくとも、そのような読みだけ…

11 「ちっぽけな実証よりも、言葉が生む可能性を」

ときおり会えばあたたかで、ふだんはやや離れたところで見守っていてくれるように感じている人が、近くにやってきて24時間すぐそばにいるようになれば、だんだんと冷たくなり、わたしたちの一挙手一投足を支配し始めるかもしれません。 自称、他称による「再…

10 「顔があるから」

三週後、仙台の知人に会いに行く予定にしています。まだ一度も被災者を訪ねていないし、被災地に赴いてもいませんが、時機を見て被災地にと、思ってきました。 なぜ、まだ行っていないのでしょうか。自動車を運転しないこと、三〜四泊以上というボランティア…

9 「薄皮をそっとめくる」 

人々がイエスに「そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネ6:34)と言うと、イエスは「わたしが命のパンである」(6:35)と答えました。人々が求めたものはパンという物質(あるいは方法、処方箋、秘薬、知恵・・・)だったのに、イエスは物質ではな…

8 「他者の前に体をおく」 

十字架の死後、弟子たちの真ん中にあらわれたイエスは、自分は亡霊などではない、手があり足がある、肉があり骨があると自らの体を示し、焼き魚一切れを食べた、とルカは語っています(24:36-43)。 亡霊ではない、体もしっかりある、これはどういう意味でし…

7 「ともに歩いている! ということは、復活したんだ! 復活の逆算」

イエスが今わたしとともに歩いていてくれる、と感じるのと、イエスの死体が医学的に蘇生した、と確信するのでは、どちらがやさしいでしょうか。おそらく、前者ではないでしょうか。わたしたちは、死んだ誰かが生き返ったということを論理的に信じられなくて…

6 すがりつかない・・・あたらしい選択肢と可能性の創造

「わたしにすがりつくのはよしなさい」。復活したイエスはマリアに言います。毅然とした口調です。けれどもこれは禁止や命令、強要ではなく、マリアに、そして、わたしたちに、あたらしい選択肢と可能性がイエスによって創造されたということではないでしょ…

5 「成長とは目標到達ではない」

詩編1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれ…

4 「苦しめる相手から教えられる」

この震災は天罰でもなければ、神の裁きでもないでしょう。このことは、はっきりとおさえておくべきだと思います。 けれども、たとえば、被災者が苦しみの中から、叫びや痛みの表出として「神はどうしてこんなことをするのか」「神は被災者を前にいったい何を…

3 「粘り強く想像しつづけたい」

ただちに明確な答えがほしい。 福島原発は今回人々にどれだけの被害をもたらしてきたのか。あるいは、どのような条件下にあれば安全なのか。誰が言っていることが正しいのか。 けれども、それはわからない。どちらの端でもないように考えがちだが、その場合…

2 「このことを誰にも話すな」

群衆はイエスのことを「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「昔の預言者が生き返った」と言いますが、ペトロは「神からのメシア」だと答えます。すると、イエスは弟子たちを戒め、「このことを誰にも話すな」と言います。(ルカ9:18-21)今回、「このことを誰にも…

1 「洪水は神の裁きの手段ではない」

今度の日曜日の聖書の箇所は、「主日聖書日課」によれば、創世記6:11-22。 13節と14節、17節と18節が筋としてつながっていると読めば、「神は不法に満ちた人間を滅ぼすために洪水をおこしたが、何人かの者は箱舟に入れて救った」ということになるかもしれな…