688 「ひさしぶりのひさしさん」 ・・・ 「笑いの力、言葉の力: 井上ひさしのバトンを受け継ぐ」(渡邉文幸、理論社、2022年)

 井上ひさしの小説、芝居は、ほとんど読んだ。2010年の彼の死後も、未完の小説なども含む作品の出版が相次いだ。並行して、井上ひさしを論じる本もいくつか出版された。

 

 けれども、そういう数年が過ぎてからは、井上ひさしの書いたものや井上ひさしについて書いたものからは、遠ざかっていた。

 

 だから、この本は、ぼくにとって、ひさしぶりの「井上ひさし」本だ。おもしろい。基本的に、ひさしの人生が時間軸で述べられ、それに沿って作品のタイトルやそれへの短いコメントが並べられる。社会状況にも、ひさしさんと同様に批判的な角度から触れられている。

 

 文は平易だ。ひさしさんの影響か。著者はジャーナリストだったが、ひさしさんの文章教室も受講したことがあるそうだ。

 

 「井上ひさしの生涯貫いた理念はこのヒューマニズム精神にあるということができると思います。キリスト教精神をバックボーンに、弱い者や虐げられた者とともにあるという生き方であり、人権や個人を尊重するということです」(p.226)。

 

 キリスト教精神にもいろいろあり、すべてのキリスト教徒がヒューマニズム精神を持っているわけでもない。自分の救いにしか関心のない人もいる。(ちなみに、キリスト教の文脈では、「ヒューマニズム」という語は、人間が神の力ではなく自分の力で救われようとする姿勢を批判する際に使われることもある)。

 

 実体が明らかになっているわけではないが、ひさしは家族への暴力も取りざたされていて、ヒューマニズム精神が疑われる可能性もあるが、それでも、貧しい人々、弱い人々、虐げられた人々がそこから解放されなければならない、という考えは強くあったと言えるだろう。

 

 ひさしさんは高校三年生のころには「プロレタリア作家・小林多喜二の作品やマルクス経済学者・河上肇の自伝を読んで、命がけで自分の信条を守りとおした人間が社会主義者にいる。またカトリックにも殉教者が大勢いるということを知ります。そして〈このふたつが世界の枠組みをつくっているのかもしれない〉と考えるようになります」(p.136)。

 

 19世紀に日本に入ってきた新しい思想としての社会主義キリスト教にひかれるのは当時のリベラル青年のつねであり、ひさしさんはその系譜の末裔なのかもしれない。ただし、社会主義者カトリック信者を、どちらも、大切なものを守ろうと、命がけの生き方をした、という見方をするのは、ぼくには新鮮だ。

 

 これを機会に、ひさしの未読のエッセイだけでなく、できれば、全作品を再読したいものだ。ぼくの何分の一かは井上ひさしからできていると思う。