11 「ちっぽけな実証よりも、言葉が生む可能性を」

ときおり会えばあたたかで、ふだんはやや離れたところで見守っていてくれるように感じている人が、近くにやってきて24時間すぐそばにいるようになれば、だんだんと冷たくなり、わたしたちの一挙手一投足を支配し始めるかもしれません。

自称、他称による「再来したキリスト」に感じる違和感の原因のほとんどはそのいかがわしさにあると思いますが、わたしたちはキリストと一定の距離を保つ方が心地よい、ということもあるのかも知れません。イエスがともにいてくださる、これはうれしいのですが、心で感じるとか人とのあたたかい交わりの中で感じるとかいうように、それが見ることも触ることもできない形であるから安心できるのであり、目に見え触ることのできる存在を指して「これがイエスだ」と言われたら、居心地の悪さを強く感じるのではないでしょうか。また「再来したキリスト」たちの中にはそれを信じる人々の言動や精神を自分の利益になるようにコントロールしようとする者もいると聞いています。

「マラナタ」「私たちの主よ、来てください」と祈りますが、わたしたちが過ごしている歴史、時間の中で、特定の日付に、特定の人物が、「じつはイエスです」という形であらわれたら、わたしたちはどうするでしょうか。二千年前、ユダヤのイエスがキリストしてこの世を生きたけれども、そのままずっと君臨せずに、三十年で死に、復活し、天に帰ったことに意味があるように思います。イエスが二千年間この地上でキリストとして生き続けていたとすれば「私たちの主よ、来てください」という祈りはないのです。「主よ、どうぞ、お越しください」という言葉の持つ力、希望はなくなってしまうのです。この言葉の力、この希望が今も生きているのは、イエスが見え触れる形ではここにおられないからです。わたしたちは未来に向けて「主よ、どうぞ、お越しください」と祈りつつ、今を歩き抜き、未来を切り開くのです。

信仰とは「あなたをかならずそこから救う」と聖書に書かれている未来を信じることですが、それは、同時に、「あなたをかならずそこから救う」という神の言葉が今のわたしたちにたいして持つ力を信じることです。

7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ)

百人隊長はイエスにどんな言葉を求めたのでしょうか。きっと「あなたの僕はいやされる」という言葉だと思います。彼はそれを切に願っているのですから。

しかし、百人隊長はイエスが自分の家まで来ることを望みませんでした。さいしょはそう願ったのですが、途中でその願いを撤回し、「ひと言おっしゃってください」と、イエスの言葉を求めたのです。彼はイエスから出る「あなたの僕はいやされる」という言葉の力強さを知っていたのです。それは、たとえとしては適切でないと思いますが、「行け」「来い」「これをしろ」という軍隊の言葉のような力、実現力、信頼に満ちているのです。このまま死ぬしかない、死んだらそれで終わりだ、という具合に固まってしまった現在を、あらゆる可能性のある未来へと開墾するのです。

百人隊長は、なぜ、今すぐ来て僕をなおしてください、という願いを撤回し、「ひと言おっしゃってください」と言い直したのでしょうか。それは、イエスが来て目の前で病気をなおすという実証的なことよりも、それがまだ実現する前から「あなたの僕はいやされる」という言葉が発している力、希望を大事にしたからではないでしょうか。

信仰とは「きっとこうなると信じる」ことであり、「きっとこうなる」ことではないと思います。信仰とは「きっとこうなる」「わたしの言っていることは正しい、わたしは正しい」ということではないと思います。

信じるとは、まだ起こっていないことがらを指し示す言葉によって、今を支えられ、言葉がそのまま実現することとは違う意味で(言葉がそのまま実現すれば、それはすでに膠着化した既成事実になり、権力となり支配となり、創造的なものではなくなる・・・)未来を切り開かれることではないでしょうか。