12 「弟子にするのではなく、友になる」


マタイ福音書の最後の数節は、イエスを信じない人に教えを伝え、洗礼をほどこし、信者とすることを、イエス自らが命じているように読まれることが多いと思います。けれども、はたして、そのような読みでいいのでしょうか。すくなくとも、そのような読みだけでいいのでしょうか。

というのは、これらの節の最後の言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というものですが、これは、上のような限定された読みと比べて、非常に大きなスケールを持つメッセージだからです。

この福音書の冒頭部で、天使が「インマヌエル、神は我々と共におられる」(1:23-24)という時、この言葉は、信者増加や儀式遵守とは結び付いておらず、むしろ、福音書の最後の言葉とセットになって、この言葉で始まりこの言葉で結ぶマタイ福音書が伝えたいことは、まさにインマヌエルという事態であることを示しています。

さらに、これは神がイサクやヤコブ(創世記26:3,28:15)、モーセ出エジプト3:12)、エレミヤ(エレミヤ1:8)らなどに、イスラエルの民の歩みに添って語ってきた言葉です。一宗教の一時代の一形態に占有されるようなものではない、歴史をつらぬくメッセージなのです。

では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉のもつ、このようなゆたかさから、マタイの最後の数節を眺めると、どのような読み方ができるでしょうか。

エスは十字架につけられ死んでしまい、イエスの仲間たちは不安や疑念に満ちていましたが、やがて、自分たちの日常生活空間であるガリラヤにおいてイエスがともに歩んでいることを感じるようになりました。それは、そう願っているようでもあり、そう信じているようでもあり、そういうリアリティがあるようでもあり、それでも、それが揺れ動き、イエスなしで大丈夫なのかという不安が高まることもありました。

そういう仲間たちにイエスは近づき、語りかけます。この世界でどんなことが起ころうとも、わたしがあなたたちをしっかり支えている。だから、あなたたちは、出かけていって、自分とは異なる考え方や背景をもつ人々と出会い、友になりなさい。あなたたちも彼らもつねにわたしを尋ね求める者になるのなら、あなたたちはたがいに友になる。いのちを創造し、自らを惜しみなく与え、自由な風を吹かせ新しい空間を広げる神によって促される、これまでとはちがう生き方をともに求めなさい。神を愛することは他者を愛すること、他者をとうとぶことは神をとうとぶこと、この姿勢を慕いなさい。あなたたちのそういう歩みに添って、わたしは、どこでも、どんなときでも、いつまでも、あなたたちと共にいる。

こういう読みはどうでしょうか。