副題にある「危機の時代」には、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災が含まれる。
内村ははじめ「義戦論」を唱えた。のちに非戦論に転じたのではあるが。内村はまた、関東大震災は「天譴」つまり天罰であると論じた。
これらは内村の問題思想と見做す人も少なくないが、関根清三さんは、これらをたんじゅんに非難も承認もせず、内村の非を非、限界を限界としつつも、その思想に宿る可能性をも探求する。
本書では、イエスと日本の二つのJのためという切り口から内村の生涯を略述したのち・・・ただし、「日本のため」とは右翼的な愛国主義のことではなく、この社会やそこに生きる人々においてと関根は解釈する・・・第二章「新約聖書読解と戦争論」、第三章「旧約聖書読解と震災論」において、上述の点が論じられる。その際、内村の聖書解釈が百から数百字単位で頻繁に引用される。内村の文章は硬質ではあるが難解ではない。情熱的である。
内村の聖書解釈は不変ではなく、むしろ、時間とともに変わっていく。あるいは、一見矛盾するいくつかの解釈を同時に持つ。
「聖書の贖罪・再臨叙述をそのまま受け入れる側面と、その直解主義を排して神的愛を指し示す読み解く側面と、言わば両面の相補的緊張関係を保持していた」(p.204)。
現代の牧師の中には、内村のこれと同じ事態を内に抱えている者も少なくないのではなかろうか。
内村をこのような聖書読解に導いたのは、とうぜん、神学だけでなく、現代聖書学(歴史的批判的聖書解釈)とスピノザのごとき哲学である。
「信仰的解釈はもとより哲学的解釈も、聖書に対して主体的に過ぎる読み込みをし得るという短所を有する。それに対し、そうした主体的な読み込みに歯止めを掛けるのが、歴史的批判的解釈の長所であり、その客観的な読み取りの作業であるはずなのである。逆に言えば、客観的な読み取りに反しない限り、人は主体的な読み込みを大胆にしていけない謂れはなく、それこそが却って聖書を現代に豊穣化し蘇生させることにほかならない」(p.314)。
これは、関根自身がこれまでの著述で示してきた聖書読解であろう。
上で「主体的に過ぎる読み込み」と言われているものは「主観的に過ぎる読み込み」とも言えよう。そして、「主観的に過ぎる読み込み」が教会の中で固定化し教義の位置を得て「主観的に過ぎる」ことが忘れられることがある。主観は真理の座を主張したがる。
歴史的批判的解釈はそのことを教えてくれる。それによって、わたしたちは、「過ぎる」ことはないが、教義に押し付けられない主体的な聖書読解をすることができるだろう。
コロナ禍で、新自由主義支配下で、貧困と自然略奪による人間と地球の危機下で、反知性主義のファシズム横行下で、孤独と死の不安の中でわたしたちは、主体的に聖書を読み返したい。