9 「薄皮をそっとめくる」 

 人々がイエスに「そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネ6:34)と言うと、イエスは「わたしが命のパンである」(6:35)と答えました。人々が求めたものはパンという物質(あるいは方法、処方箋、秘薬、知恵・・・)だったのに、イエスは物質ではなく、イエスとの人格的な交わりを示しているように思います。

 わたしたちも、こうすればこうなるような方法、考え方、行動の仕方、摂取すれば健康になるような食品や薬、飲み物、いつも決まったの結果がでるような不変の物を求め、それを自分の中に蓄積していくことで、今とは違うようなすばらしい自分になることをイメージしていないでしょうか。

 たしかに、イエスはわたしたちを今とは違うところに導いてくれます。イエスはわたしたちを成長させてくれます。この意味でイエスは「命のパン」です。けれども、イエスとの交わりは、わたしが望むようなわたしにではなく、わたしが知らないようなわたしにならせてくれるのです。しかも、それは何かの方法や物質の摂取や蓄積や保存によってではなく、イエスに問われ、わたしたちが考え、また、問われ、あるいは、他の人のイエスとの出会い方にも刺激されて、わたしたちは今とは違う、知らなかった自分、他者、イエス、神、世界と出会うのです。

 イスラエルの人々は荒れ野でマナによって神から養われましたが、マナは「翌朝まで残しておいてはならない」(出エジプト16:19)ものであり、もしそうすれば、「虫が付いて臭くなる」(16:20)のです。あるいは、「溶けてしまう」(16:21)のです。

 わたしたちも、イエスによる養いを、宗教的な知識や方法、秘術のように思い、摂取して、蓄積しようとすれば、何かが腐り、融けてしまうことでしょう。

また、マナは「薄くて壊れやすいもの」(16:14)でした。薄くもろいものに養われるとはどういうことでしょうか。つまり、わたしたちが薄くて壊れやすい何かを、ていねいにはがそうとする時、神さまによる養いがあるということではないでしょうか。

内戦や貧困で多くのいのちが失われていくペルーで、ある詩人がこんな言葉を残しています。「神は、驚き、真剣な顔で、沈黙して、わたしたちの脈を取る。子どもに対する父親のように、血に染まった木綿を、そっと、そっと、開いてみる。そして、その指で、希望を引き出すのだ」。

神は、わたしたちの傷口にあてられた木綿をそっとめくってくださいます。わたしたちも、壊れてしまいそうなものをこわさないようにそっとはごうとする時、神によって、今までとは違う者へとされるのではないでしょうか。

わたしたちは、イエスから何かの方法とか手段とかをもらうのではなく、イエスと交わる、イエスと対話をする、イエスの言葉をわたしたちが一生懸命に考えることで、わたしたちの中に何かが育つのです。答えを教えてもらうのではなく、あるいは、答えがあるのでもなく、イエスの言葉、聖書の言葉、自分と神さまの関係を粘り強く、しかも、うすかわをはぐようにていねいに大事に考え続けるときに、何かが育っていくと思います。