17 「近寄って、座って」 

 ルカによる福音書10章には、「善いサマリア人」のたとえ話があり、それに続いて、マルタとマリアのエピソードが載っています。この二つの話には何かつながりがあるのでしょうか。

 「善いサマリア人」のたとえ話では、「それを実行しなさい」(28節)、あるいは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)というイエスの言葉から、実践の重要さが強調されているように思えます。37節の「行って」とは、〈ここで律法の問答をしているよりも、どこかに出て行って実行しなさい〉という含みがあるのかも知れません。言葉よりも(あるいは、言葉だけではなく)実行、学びよりも行動、しゃべっているだけでなく動きなさい、ということのように読むこともできます。

 それに対して、マルタとマリアのエピソードでは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40節)マルタよりも、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)マリアの方が評価されているように思えます。善いサマリア人が追剥に襲われた人を助けるためにいろいろな行為(33−34節にあるたくさんの動詞!)によって介抱するがごとく、マルタは旅につかれたイエスを「いろいろのもてなし」をしようとしていたのですが、そんなことは何ひとつせずに「座って」、おそらく律法のことも含むイエスの話に聞き入っていたマリアがほめられていると読めるのです。マリアは言葉、学び、おしゃべり、マルタは実行、行動、動きに属するのに、評価は善いサマリア人の場合と逆になっているのでしょうか。

 一見矛盾していると思えるこのことはどのように説明できるでしょうか。ひとつは、二つの話しはおたがいに補い合っているということが考えられるでしょう。考えるだけでなく、動く。動くだけでなく、考える。行うだけでなく、祈る。祈るだけでなく、行う。省察だけでなく実践、実践だけでなく省察
 
 それから、祈りが行いの、考えることが動くことの土台になる、支え、源泉になる、という読みもあると思います。けれども、行いが祈りの、動くことが考えることの源泉になるとも考えられ、祈り、行い、祈り、行い、祈り・・・・という循環を思い浮かべるならば、上で述べたように、おたがいに補い合っているということもできるでしょう。

 これらは、いずれにせよ、ルカ10章の二つの話がとりあえずは異なることを語っているという立場ですが、今回、わたしは、これらの話が同じことを語っていると読むこともできるように思いました。

 善いサマリア人のたとえでは、善いサマリア人は目の前に倒れている人を見て、それ以後、この人をどうにかすることにすべての動きを向けます。マリアは目の前にいるイエスの言葉にひたすら耳を傾けます。つまり、両者は目の前にいる人、苦しんでいる人、語っている人に全神経を傾けているのです。自分ではなく、目の前の他者に、自分の感覚のすべてを用いているのです。

 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)の具体例として、二つの話しは読むことができるのかも知れません。

 サマリア人が追剥に襲われた他者を全力で愛したことはわかりやすいですが、マリアもただ知識を身につけようとしただけでなく、旅の苦労話や喜びに耳を傾けることで、また、懸命に伝えようとしていることを懸命に聴こうとすることで、イエスという他者を愛そうとしたのではないでしょうか。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33−34節)。

 「来る」「見る」「憐れに思う」「近寄る」「注ぐ」「包帯をする」「乗せる」「連れて行く」「介抱する」、矢継ぎ早にあらわれるこれらの動詞群の目的語はすべて、自分=サマリア人ではなく、他者=追剥に襲われた人であり、自分ではなく他者への意識の集中がうかがえます。

 「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)。

 イエスの足もとに座るマリアの姿は、倒れている人に近寄るサマリア人の姿に、イエスの話に聞き入るマリアは、消毒液を注ぎ、包帯をし、のばに乗せ、宿屋に連れ、介抱するという一連の動きに黙々と集中するサマリア人に重ならないでしょうか。

 イエスがわたしという異邦人、他者、信仰なき者に集中してくれるから、わたしもそれに応えて他者に集中できる者に憧れます。