15 「悔い改めの話しなの」

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。これは、ルカによる福音書15:4-6の「たとえ話」につけられた「解説」のような言葉です。イエスは4節から6節で「たとえ話」を語り、7節でその説明をしたように見えます。
けれども、7節の「解説」は4-6節の「たとえ話」に合っていないと思うのです。一匹の羊が「悔い改めた」などとは記されていないのです。10節も8-9節の銀貨のたとえを受けて「一人の罪人が悔い改めれば」とあるように見えますが、無くなった銀貨は自分から悔い改めて持ち主のところに戻ってきたのではなく、持ち主の方から「見つけた」(8-9節)のです。

そもそも、「悔い改める」という言葉から、人はどんなことを思い浮かべるでしょうか。これまでは悪いことばかりをしてきたけれども、反省して、これからは神を信じてまじめに生きる、ということでしょうか。あるいは、これまでは、神の方を見ていなかったけれども、これからは、神の方に自分の向きを変える、ということでしょうか。そんな劇的な変化やその後の不変不動などということがあるのでしょうか。

たしかに、高いところから見下すのではなく、同じ地平や、その人がおかれている低い位置に視線をおく、という考え方があることに、あるときハッと気付かされて、それが深く精神に刻み込まれることはありえるでしょう。かといって、それからさき、いつも傲慢から解放され、地べたからモノを見続けている、とは限りません。ただ、そういう考え方、そういう尺度から離れてしまっていないか、つねに問われるようになることはありえると思います。

悪いことをしない、神を信じる、神の方を見る、そう決めて、24時間、365日、それを貫くというような意味での「悔い改め」は、すくなくともわたしにはありません。あるのは、神を信頼していないことに、あるいは、神や隣人の方ではなく自分の方を見ていることに、つねに気づかされるということです。そして、神を信頼し、他者を見たい、と憧れることです。もし、わたしに「悔い改め」というものがあるとすれば、この気づきと憧れのことであり、けっして、悪や自分本位や不信からまったく自由になることではありません。

「悔い改め」という言葉を巡ってはこのようなことを思いますが、「たとえ話」に戻りますと、一匹と九十九匹の羊のたとえ話では、羊は自分で群れを離れたのではなく、羊を飼う者がそれを「見失った」(4節、6節)です。責任は羊を飼う者にあるように思います。銀貨のたとえでも、銀貨が自分で出て行ったのではなく、持ち主が「無くした」(8‐9節)のです。「このように」(7節、10節)、ふたつの話は(神のもとから自ら離れたことを)「悔い改める一人の罪人」(7節、10節)の例えとしてはうまくないように思えます。

では、7節、10節を除いた「たとえ話」からはどんなメッセージが汲み取れるでしょうか。一匹の羊も、一枚の銀貨も、そこに一人孤独にポツンと捨て置かれている、その責任を持ち主が感じている、と読みとれます。ああ、わたしが見失ってしまったのだ、ああ、わたしが無くしてしまったのだと。言い換えますと、持ち主はそれがそこにないことについて、責任を強く感じるまでに心を痛めているということです。

そして、それを「捜し回り」(4節)、「見つける」(5節)のです。「念を入れて捜し」(8節)、「見つける」(9節)のです。羊や銀貨が「悔い改めて」、自分で帰ってきたのではありません。飼い主、持ち主がこれを見つけるのです。

ところで、この解釈は、11節からの「放蕩息子」の話にはあてはまらないと思っていました。息子は「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」(18節)と言っているのですから。

ところが、「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)について、佐藤研さんが「息子が帰ってきたのが目に入るやいなや、息子が悔い改めたかどうか、などということはそっちのけで、飛びついて」いく父親には「『無条件にゆるす』姿」があり、それは「無条件にゆるす神」を示していると書いておられるのを読み、うれしくなりました(「イエスの父はいつ死んだか」p.135)。

エスはたしかに、神さまの方を向きなさい、あるいは、視点を低くしなさい、というような意味で「悔い改めよ」(マルコ1:15、マタイ4:17)と言ったように思いますが、そこには「神の国」「福音」(マルコ1:15)、「天の国」(マタイ4:17)、つまり、無条件にゆるす神が前提になっています。律法を守らないと救われないぞ、悔い改めて律法を守れ、そうすれば罰がゆるされるぞ・・・こういう話ではまったくなさそうです。