6 すがりつかない・・・あたらしい選択肢と可能性の創造

「わたしにすがりつくのはよしなさい」。復活したイエスはマリアに言います。毅然とした口調です。けれどもこれは禁止や命令、強要ではなく、マリアに、そして、わたしたちに、あたらしい選択肢と可能性がイエスによって創造されたということではないでしょうか。

すがりつくことがいけないのではないと思います。すがりつく時もあります。これもイエスによって与えられた時のひとつ、可能性、選択肢のひとつなのです。

けれども、起き上がって、ともなわれ、歩く、という選択肢も、今日ここに新しく創造された・・・今年の復活の意味をこう考えます。

「がんばれ日本、がんばれ東北」。たしかにそうかも知れません。けれども、それには時があります。その時は、一人一人によって違います。一人の人間の同じ時間の中にも、すがりつくこととすがりつかないことが併存していることもあるでしょう。

コヘレトは言いました。

3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時

悲しみ、疲労に沈み込むしかない時、それが大切な時もあります。笑う時、踊る時もあります。誰かを抱きしめたくなる時もあり、その手を放して、ならんで歩き始める時もあります。神さまはわたしたちにさまざまな時を用意してくださいました。

マリアはイエスにすがって生きてきました。イエスこそが根本の支えです。そのイエスが十字架にかけられ、死に、葬られ、しかも、墓にさえいなくなってしまいました。墓の中をいくら見ても、そこには、もはやすがるものが何もないのです。

と、イエスは墓の外から呼びかけます。「マリア」「ラボニ」。マリアはイエスにすがります。けれども、イエスはマリアにともに歩もう、神に導かれてともに歩もう、と招くのです。

エスにすがって生きてきたマリアに、イエスとともに希望に向かって歩むというもうひとつの選択肢が創造されました。今すぐそうしなければならないことはありません。でも、いつかそうするという可能性が開かれたのです。マリアの生の幅が広げられたのです。