1 「洪水は神の裁きの手段ではない」

今度の日曜日の聖書の箇所は、「主日聖書日課」によれば、創世記6:11-22。

13節と14節、17節と18節が筋としてつながっていると読めば、「神は不法に満ちた人間を滅ぼすために洪水をおこしたが、何人かの者は箱舟に入れて救った」ということになるかもしれない。

しかし、「洪水によって神は不法な者を滅ぼす」などという、それこそ不法な思想を阻む、あるいは乗り越える作用を「箱舟物語」が果たそうとしているように読むこともできないだろうか。わたしたちは今、洪水が神の裁きの手段などではないことをじゅうぶんに知っている。

もともと、裁きの話と無関係に、「箱舟によって洪水から人々が救われた、洪水によっても希望の芽は残った」という話があり(14-16節、18-20節)があり、そこに、不法や滅ぼしの意味をもたせようとしたが(11-13節、17節)、もともとの箱舟の話がそのような意味付けをなんとか阻もうとしている、そのようには読めないだろうか。

しろうとのごり押し読みだから、聖書学的に間違っていても、ちっとも構いません。

ようは、洪水は神の裁きの手段ではない、ということです。

今度の日曜日のもう一つの聖書の箇所は、ルカ11:14-20。

「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった」(14節)。イエスはたしかに悪霊を追い出してその人が口を利けるようにしようとしたであろう。けれども、イエスは悪霊だけでなく、「この人が口を利けないのは悪霊に取りつかれているせいだ」という人々の考えをも追い出そうとしていたのではなかろうか。

14節に続いて、イエスは「この男は悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言う者らと論争をしているが、これも、病気、障害、災害、貧困などといった困難の原因をその人にとりつく悪霊とする因襲的な考えをイエスは乗り越えようとしていたのではなかろうか。

ただし、それらの困難が、「まるで悪霊に取りつかれているとしか思えない」ほどに、激しく、執拗で、絶望的なものであることをイエスはわかろうとし、その困難をなんとか追い払おうとしていたとも思う。

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。口が利けないのは悪霊に取りつかれているからではない。本人はそう思ってしまうくらいに苦しいこともあるだろうが、他の人がそう考えるべきではない。イエスはそのような因襲的な考え方とその人の苦しみを神の指でなんとか追い払おうとする。神の国がここにある。