13 「バラバラか様々か」

 「バラバラか様々か」

使徒言行録2章に、イエスの弟子たちが集まっていると、激しい風が吹き、炎や舌のような形をしたものが一人一人の頭上にあらわれ、彼らはさまざまな言語を語るようになった、とあります。

この記事に基づいて、キリスト教会では聖霊降臨日を設け、その日の礼拝ではこの箇所とあわせて、創世記11章の「バベルの塔」の箇所が読まれることが多いようです。そして、バベルの塔をめぐる出来事によって、それまでは一つの言語を話し一つにまとまっていた人々が、それからは互いに異なる言語を話すようになり理解ができなくなり分裂した、という事態が、聖霊降臨の出来事によって回復された、というように思われることが多いようです。つまり、バベルにおいては、まとまっていたものが分裂し、聖霊降臨においては、分裂していたものが一つにまとまった、と。

しかし、二つの聖書の箇所をあらためて読んでみますと、これとは少しニュアンスの違う読み方もできるように思いました。まず、単純化しますと、バベルの場合は、「一つの言語から多くの言語へ」ということになりますが、じつは、聖霊降臨の場合も、「一つの言語から多くの言語へ」ということになります。弟子たちは皆ガリラヤの言葉を話していたのですが、いまや、さまざまな地方の言葉を話すようになったというのです。

では、両者の違いは何かと言いますと、いくつの言葉を話すということよりも、聴き手への敬意、聴き手の立場の優先、ということのように思うのです。

バベルの塔の話では、人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)という構えなのです。自分が誰よりも高いところに立つ、神のようになる、有名になる。ここには自己主張、エゴイズム、自分の語りが渦巻いています。ひとつの言葉を話していても、じつは、相手への敬意、聴き手への優先的配慮は存在しないのです。

この意味では、神が「言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにする」(11:7)以前から、互いの言葉はすでに聞き分けられていなかったのではないでしょうか。たしかに、ひとつの言葉であったものが多くの言葉が語られるようになりましたが、それは、多様なのではなく、バラバラなのです。

聖霊降臨の場合はどうでしょうか。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた」(使徒言行録2:6)とあります。弟子たちは、もはや自分が自分のことを語るガリラヤの言葉に固執していません。聴き手は、自分たちにあわせて、自分たちの状況が配慮されて、そういう空気の中で言葉が話されていることを知るのです。

ここでも、ひとつの言葉であったものが多くの言葉が語られるようになりました。しかし、これは、バラバラではなく、様々です。有名になるために、自分を語るために、ではなく、聞く人それぞれの立ち位置や背景がとことん尊重されているのです。

神の言葉が語られるということの中には、このような消息も含まれるように思いました。