8 「他者の前に体をおく」 

 十字架の死後、弟子たちの真ん中にあらわれたイエスは、自分は亡霊などではない、手があり足がある、肉があり骨があると自らの体を示し、焼き魚一切れを食べた、とルカは語っています(24:36-43)。

 亡霊ではない、体もしっかりある、これはどういう意味でしょうか。死者の亡霊があらわれることよりも、肉体をともなって生き返ることのほうが、より驚異の出来事であり、イエスにおいて真の神の力が働いていることの証明に他ならない、ルカが語ろうとしていることは真の神の出来事である、そういう意味でしょうか。そして、そこには、キリストはじっさいに復活した、他の宗教や宗教者にはそんなことはない、だから、キリスト教こそが唯一正しい真の宗教だという考え方のパン種があるのでしょうか。そんなことにすぎないとすれば、これはかなりさびしい考え方だと思います。
 
 わたしは、イエスが十字架の死後も人々にあらわれたのは、人々を亡霊のように怖がらせたり、不安にさせたり、復讐しようとするためではなく、むしろ、人々に平安をもたらすためだと思います。いや、ルカ自身が「あなたがたに平和があるように」(24:36)というイエスを描いています。そして、その平安は、イエスが人々とつながっていること、人々とこれまでの関係を保ち続けていること、これまでと同じようにイエスがともにいることによってもたらされるのです。

 パウロの文書についてのどなたかの注解書で、「体」とは孤立した存在ではなく、個と個のつながりを示す、というようなことを読んだような気がします。ルカが、手と足、肉と骨を備えた者として復活者イエスを描くことにもそういう意味を汲み取りたくなります。

 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」(24:39)。復活したイエスの手は、誰かの手を握るための手ではないでしょうか。イエスの足は、誰かと一緒に歩くための足ではないでしょうか。

 もう一点。わたしたちは上の空の状態を「肉体はここにあっても、気持ちはここにない」と表現します。ルカは、霊ではなく手と足だ、と言います。一見正反対の表現ですが、じつは同じことだと思います。他者とのつながりの中にしっかりと身を置く、他者の前に立ち他者をしっかりと見、しっかりと聞く、そして、手を伸ばしたり、足並みをそろえたりすることが促されているのではないでしょうか。

 イエスはわたしとのつながりに、そして、わたしの他者とのつながりに、上の空ではなく、しっかりと没入してくれます。わたしも、他者への侵害でも、寄りかかりでもない、つながりに、しっかりと体を沈めることを慕い求めます。