10 「顔があるから」


三週後、仙台の知人に会いに行く予定にしています。まだ一度も被災者を訪ねていないし、被災地に赴いてもいませんが、時機を見て被災地にと、思ってきました。

なぜ、まだ行っていないのでしょうか。自動車を運転しないこと、三〜四泊以上というボランティアに対する求めにスケジュール上応じられないこと、そんな体力もないこと、そして、何よりも、行動力や情熱がないのだと思います。

それでも、なぜ行きたいのでしょうか。たくさんの人々、たくさんの知人がすでに支援活動を経験していることに対するうしろめたさがあります。あるいは、「聖書の神は困窮している人々の側に立つ」と学び、それを口にしてきた自分を満足させたいという気持ちもあると思います。被災した何十万人もの人々の痛みに無関心でないことを自分や誰かにアピールしたいという思いも潜んでいるかも知れません。(ただ、そのことに対する警告が「人の津波」という表現で被災地の方から出ていることが、行かない自分をいくぶんか正当化してくれています。)

行きたい理由をさがしても自分本位のものばかりです。けれども、ひとつ、そのようなものではないものがあるとすれば、被災した方々の「顔」です。被災した方々の「顔」もまた、被災地訪問へとわたしを促しているように思います。

レヴィナスという人は、「貧しく異邦人であり、一糸もまとわぬ「顔」、つまり他者の「わたしを殺さないで」という呼びかけとそれへの応えとしての責任を倫理の(始めのない)始めとする」(「ヘブライ的脱在論 アウシュヴィッツから他者との共生へ」、宮本久雄)そうです。

これを、わたしが歪曲しますと、倒れている人はただ倒れているだけでその体全体から「このまま放置しないで、起こしてくれ」と呼びかけ、苦しんでいる人は苦しんでいること自体によって全身で「助けてくれ」と訴え、死にかけている人はそのことですでに「死なせないでくれ」と求めているのであり、わたしたち人間の倫理的な精神や行動は、この顔、この全身からの問いかけに答えることから始まるということでしょうか。

しかし、わたしたちは、この問いかけに誠実に応答しているわけではありません。何ひとつ応答しないこともあれば、応答しているように見えても、じつは、それは自分本位の動機からであったりします。

けれども、神はわたしたちの「顔」の呼びかけ、訴えに対して、誠実です。「あなたの神は、あなたをご自分の宝の民とされた。・・・あなたたちはどの民より貧弱であった」(申命記7:6-7)。神はわたしたちの「貧弱さ」(「数の少なさ」とも訳せるようです・・・)に応答し、ご自分の宝にしてくださったのです。

神がわたしの「顔」に応じてくださるのなら、神がわたしの「顔」を見て、放置できないという倫理的な姿勢をとってくださるのなら、わたしもまた、他者の「顔」に問われ、促されることもあるでしょう。