18 「救いは法外」 

 神の国とは、たとえば、このようなものかも知れません。ある人に三人の子どもがいました。最初の子どもは歯医者さんになる大学に入りました。父は歯科医になるなら安心だと満足しました。ところが六年目の四月、突如失踪し、なんとか帰ってきたかと思うと、大学をやめたいと言い出しました。父は無念をこらえながら、それを許しました。

 二番目の子どもも大学に入りました。父は、この大学に入ったのなら、あとはもう大丈夫と胸をなでおろしました。ところが、二年目の四月、今の大学をやめて別の大学に行きたい、という手紙がきました。父はそれを許しました。

 三番目の子どもも大学に入りました。父は、ふたたび、この大学に入ったのなら良かろう、と安心しました。ところが、四年目の四月、これまでまったく授業に出ていない、四年間ひたすらマージャンをして過ごした、もうこの大学は卒業しようがないから、やめて別の大学に入りたいと言い出しました。父はそれを許しました。

 この子どもはそうしてお医者さんになる大学に入りました。けれども、二年目の四月、この子どもも失踪。どうにかあらわれたかと思うと、この大学もやめたいと言い出しました。父はそれを許しました。

それから、二十年、一番上の子どもは三十代に資格をとり今は税理関係の仕事、二番目も三十代まで学校で学び今は自由業、三番目も三十代に資格をとり今は会計関係の仕事をしています。

 このたとえをどう読んだらいいでしょうか。あの時、父が退学は認めない、この大学をきちんと卒業するしかないという、父の法にこだわっていたら、子どもたちは救われなかったかも知れません。父が自らの法の外に出たことで、法の外に出ざるを得なかった子どもたちが救われたのかも知れません。

 誰もが働かなくてはならない、とはわたしは思いません。社会情勢、体調、年齢、家庭の事情などで働いていない人がいたり、働かないという選択があったりして当然だと思います。ただし、社会保障や他の人のサポートがなく、働く以外に収入がない人は、衣食住のために働かざるを得ません。このかぎりで、人は働かなければならないのです。それが法です。
 
 けれども聖書は言います。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(出エジプト記23:12)。

 「六日の間、仕事を行う」という法の中では、人は疲れ果てて、あるいは、死んでしまいます。しかし、この法の外に、「七日目には、仕事をやめねばならない」という法外の法があるので、わたしたちは「休み」、「元気を回復」させることができます。

 わたしたちは他者との葛藤においても、法の外に出て、たがいに救われるのかも知れません。

 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(ローマ14:2-3)

 ローマ帝国諸都市の食用肉には(その人から見れば)偶像に供えられた肉が払い下げられたものが混じっている、そのような肉を食べれば偶像崇拝になってしまうかもしれない、こういう法をもって生きる人々がいます。かたや、そういう人たちは「信仰が弱い」、信仰を強く持っていれば、それは単なる肉に過ぎなくて、偶像崇拝などの心配はないという法に生きる人々もいます。

 パウロは、それぞれが自分の法の外に出て、肉を食べない人を弱いと軽蔑しないように、また、肉を食べる人を偶像崇拝と裁かないように、と勧めています。

「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」(14:4)。

それぞれの主人は神であるのに、まるで自分が主人、神であるかのように、自分の法がすべてであるかのように人を裁くことをパウロは批判します。人が自分の法の外に出ることは、あるいみ、隣人の法、そして、神の法に入ることを意味します。

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(14:5-6)。

 何が偶像崇拝であるか、何をもって信仰が弱いとするのか、ある宗教行為をどのように営むのか。こうした判断には、どうしても判断する人の法が入ってしまうのに、それをあたかも普遍的な法のようにして、人を裁き、人を罰することはいかがなものでしょうか。

 なぜ、人は自分の法の外に出ようとしないのでしょうか。神でさえ、神の法の外にあえて出られたのに。

 「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)。

 安息日はもともと働く人や家畜を休ませる日、いのちを守る日だから、井戸に落ちたいのちを救いあげるのは当然だという言い方ももちろんできますが、たとえ、安息日が救済労働を含むいかなる労働もしてはならない日であったとしても、その法の外に出て人を癒す、これが神の子イエスのあり方である、と読むことも不可能ではないでしょう。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

 神は自らの法に固執せず、その外に出て、人間として生まれ、生き、死んだ、という信仰を初代のキリスト者は持ちました。

 「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(ヘブライの信徒への手紙13:12)。

 神の子イエスは「門の外」に出て苦しんだ、そこにこそ、自分たちの救いがあるとこの手紙の筆者は告白しています。