7 「ともに歩いている! ということは、復活したんだ! 復活の逆算」

 イエスが今わたしとともに歩いていてくれる、と感じるのと、イエスの死体が医学的に蘇生した、と確信するのでは、どちらがやさしいでしょうか。おそらく、前者ではないでしょうか。わたしたちは、死んだ誰かが生き返ったということを論理的に信じられなくても、死んだはずの誰かが今も一緒にいるように思うことはあります。

 ルカによる福音書を書いた人にも、まず、イエスは今自分と一緒に人生の旅をしていてくださるという確信があって、そこから、逆算して、ということはイエスは復活したのだ、という信仰にいたったのではないか、と思いました。

 ルカは、イエスの遺体が墓になかったことについては12の節(24:1−12)しか割いていませんし、どのようにして復活したのかということについてもひとことも触れていません。けれども、それにつづく三十以上の節(24:13-49)を、イエスが親しい人々とともにいたことの記述に割り当てています。ルカにとっては、復活の奇跡そのものよりも、今イエスがともにいることの方が大切だったように思います。

 イエスを自分の救い手として受け入れるには、まず復活を信じてから、その帰結として、イエスがともに歩むことを信じる、という流れが思い描かれがちですが、わたしは、イエスがともにいてくれるという感覚から出発して、イエスの復活を思う、という道もよいと考えます。

 いいかえますと、イエスが今ともにいてくださることと無関係の、たんなる超常現象としての蘇生は意味がありません。イエスは墓に埋められたけれども墓の中に閉ざされてなく、そこから出て今わたしたちとともに歩いている、という一連の物語こそが復活のメッセージだと思います。

 ところで、ともにいてくれる、ともに歩いている、というと、イエスはわたしたちの言うことを何でもよしよしと聞いてくれるような気がしますが、エマオ途上の物語は、そんなことは言っていません。弟子たちはむしろ、イエスに問いかけられ、自分たちが気付かなかったことを教えられます。

 共感すること、寄り添うことには、たしかに、そのままの受容という局面がありますが、それだけでなく、「わたしはそう思いません。わたしはむしろこう考えます」ということが自由に(ねがわくば、感情的な傷つきによる断絶の可能性をできるだけ少なくして)語りあわれる中で、両者がならんで成長する、両者がともにこれまで知らなかったステージを迎える・・・共感や寄り添いにはこのような面も望まれるように思います。

 イエスは暗い顔をしていた弟子たちの話にまず耳を傾けましたが、「そうだね、そうだね、それはつらいね」などとは言わずに、「物分かりが悪く、心が鈍い者よ」(25節)という言葉で始めて、彼らに新しい気付きを与えようとしました。

 ともにいてくださり、ともに歩いてくださりながら、墓場以外の場所があることをわたしたちに気付かせようとするイエスの姿を思います。