16 「ゆるめられた人なのに」 

 「罪深い女なのに」(ルカ7:39)。ファリサイ派のシモンのこの視線は、この女性の全身を硬直させたことでしょう。「こいつはこんなやつなのに」「おかしいやつなのに」「わるいやつなのに」「だめなやつなのに」。

 けれども、イエスは違いました。「この人の罪はすでに赦されている」(7:47)。

エスのこの声と眼差しは、こわばった彼女の体を一挙にゆるめました。彼女の頭から足までぎゅうぎゅうにしめつけていた縄目は、いまや解き放たれました。「この人もまた神にいのちを与えられ、生かされている人だ」「この人もまた神に愛されている人だ」

 聖書の言葉やイエスの前に立つ時、たしかに、わたしたちの強欲とそれを満たすための暴力があきらかになります。わたしたちが、自分自分、ぼくぼく、わたしわたし、としか言わず、まったく自分と異なるお方、異なる他の人のことを思わないし、思おうとしても思えないことが示されます。けれども、責め立てられるているのではありません。

 罪がはっきりと浮かび上がってきますが、神やイエスは、わたしたちを咎めているのでも、償わせようとしているのでも、罰を与えようとしているのでもありません。むしろ、あたらしく歩み始めさせようとしておられるのです。

 あるいは、シモンのような人々や自分自身でも自分に向けてしまう「罪深い女なのに」という視線によって凍てつかされた筋肉を弛め、解きほぐそうとしておられるのです。

 わたしたちも、他者を「罪深い女なのに」ではなく、「この人は赦されている」という思いに満ちて人を見ることに憧れます。また、神やイエスはわたしを罰しようとしているのではなく、ゆるめ、ゆるし、解き放とうとしておられるという思いが大きく育つことを願い求めます。

 さらには、この女性がイエスの足を濡らしぬぐったように、わたしたちも汗にまみれ疲れ果てた旅人をもてなしたいと思います。女性がイエスに口づけをしたように、わたしたちも眼をとがらせナイフを握り締めてではなく、友好的な構えでゆったりと人の前に立ち、言葉を贈り合いたいと思います。女性が高価な香油をイエスに塗ったように、わたしたちも出会う他者が尊い存在であることを思い起こし、尊敬し、尊重したいと思うのです。