14 「無理にでも連れて」 

 「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ14:23)。ここでいう人々とは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(14:21)のことでしょう。

 目の見えない人を無理にでも連れていく。ここで思い出すのは、視力がほとんどなかった友人の話してくれたことです。ある日、彼が白杖をついて自力で横断歩道をわたろうとしていると、いきなり誰かが腕をつかんで、「こっち、こっち」と叫びながら、向こう岸の歩道までひっぱっていったと。そして、それはその時の彼にとってはありがた迷惑で、下手すれば、突如腕をひっぱられた時点で路上で転倒して大けがをする可能性もあったと。誰かの助けが必要な時は、立ち止り、白杖を上にあげ、「すみません、どなたか」と自分から言うと。

 善意とは言え、というか、善意というやつは相当に恐いのですが、目の見えない人を無理に連れ動かしてはいけないのです。あるいはこういうこともありました。礼拝に良く来る初老の男性に家がなく、請われるままに教会に何度も泊ってもらっていたのですが、二〜三年するとこちらもしんどくなって、二人で福祉事務所に行ったら、生活保護を受けられるようになりました。ところがその人はそれを放棄して、野宿に戻られました。そういうことが繰り返されました。冬の野宿は体にとても厳しいだろうし、ずっと咳き込んでいたしと思うのですが、アパートに住んで生活保護を受ける生活を無理にでもしてもらうことはできないのです。(「だから、ホームレスの人は、自分が好きでそうしている」などという声を相手にするのは、正直、しんどいです)。

 その人のため、その人を支えるためといくら思っても、無理に善意とやらを押し付けることには、相当の抵抗を感じます。けれども、この「無理にでも」という言葉を横にずらしながら思うことを述べるなら、まず、無理強いはすべきでないと思うものの、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が受けている苦境は、「やがて」解決されるべきものでもなく、解決を「先送り」され続けていいものでもない、「今すぐ」なんとかされるべきだと思います。

 不正の牢獄からは、「たったいま」釈放されなければなりませんし、抑圧のくびきは「ただちに」取り除かれなければなりません。津波地震原発事故から人々が救いだされるためには、そして、復興、あるいは、再出発するには長い時間、粘り強い構えが必要であるにもかかわらず、それは「緊急」「緊要」の課題であることと同様です。

 「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」の受ける不正な扱いは、まったく理不尽で耐えがたいものであるから、「今すぐに」解決されなければならないのですが、それがそのままずっと続いているから、なお一層「ただちに」なんとかなされなければならない、そういう緊要性が「無理にでも」という言葉の範疇のどこかで響いているようにも思うのです。

 「無理にでも」を、もうひとつこれとは別の方向にずらしてみたいと思います。そこで聞こえてくるのは、神さまが主導権をもってそうしてくださる、力強い御腕でひっぱってくださるという調べです。

 わたしたちは、自分の力では、自分一人でも、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」とともにでも、神の国に入ることはできないと思ってしまうのですが、じつは、それは神が先頭に立ってなしてくださること、圧倒的な力で推進してくださること、その意味での神のなす「無理にでも」がある、ということを信じ、そこに希望をおき、その上で「無理にでも」自分もそこにコミットするという選択肢を放棄したくないと思います。