5 「成長とは目標到達ではない」

詩編1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。

実を結ぶとは、あるいは、成長するとはどういうことでしょうか。「自分は」こういう人間になりたい、わたしたちはそういう像を描き、そこに到達しようとします。

けれども、成長とは、じつは、「自分の」思いを実現することではなく、自分の思いと違う方向に導かれて、知らない光景の中へと入っていき、おそれず、あるいは、おそれつつも、そこを旅し続けることではないでしょうか。

わたしたちは、隣人を愛し、困窮している友を訪ね、慰めることのできるような人間になりたいと思います。けれども、それは、あくまで、「わたしたちの」思いであって、成長するとは、ほんとうは、この思いと違う方向に導かれることではないでしょうか。

被災地からこんな声が出されました。津波の後、たくさんの人が何かできないかと見舞ってくださる。うれしいけれども、訪問者があるたびに何度も何度も津波のことを語らななければならない。語るごとに恐怖がよみがえる。海の津波につづいて「人の津波」にさらされている。このことをわかってほしい。

また、被災地以外の人間が、「自分たちが」援助したいという欲を満たすために先走りし、被災者の要望にあわないものを含めて、ただ大量に送りつけられても困る、という声も聞こえてきました。わたしも被災者の立場からは的外れの「援助」の仕方を考えて、おろかにも被災地の方に提案したこともありました。

隣人を愛し、困窮している友を訪ね、慰めることのできるような人間になりたい、困っている人々を助けるために何かを送りたい、何かをしたい、これは、あくまで「わたしたちの」思いです。自分の思いにこだわるわたしたちは詩編1:1の「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」と無縁ではないと思います。

わたしたちは、人を助けるものになりたいという、自分の目標へと成長するのではなく、それを抑え、被災者の声に耳を傾け、場合によっては、援助や提案を思いとどめる者になるという、予期しなかった像へと成長していくように導かれているのだと思います。

成長とは、自分の思いにこだわるのではなく、「主の教え」(1:2)を大事にする人です。被災者の声は、自分の思いではない、大事な他者の声という意味で「主の教え」に通じるように思います。そして、この声こそが「流れ」(1:3)であり、それによって、わたしたちは、自分が到達しようと思ったのではない、まったく新しい姿へと成長し、実を結び、葉を茂らせる可能性があるのではないでしょうか。