4 「苦しめる相手から教えられる」

この震災は天罰でもなければ、神の裁きでもないでしょう。このことは、はっきりとおさえておくべきだと思います。

けれども、たとえば、被災者が苦しみの中から、叫びや痛みの表出として「神はどうしてこんなことをするのか」「神は被災者を前にいったい何をしているのか」という言葉があるならば、それを簡単に斥けてはならないでしょう。

もうひとつ。被災者を前に、わたしは何をすべきなのか、今、わたしは神とどのように向かい合うべきなのか、ということが問われている・・・こういう意味で言えば、わたしは今、神の裁きの前に立っている、と思います。

ルカ20:9以下によれば、ぶどう園の主は収穫を求めて三度僕を送りますが、農夫たちはそのたびごとに暴力を働き、追い返したり、放り出したりします。最後に、跡取り息子が遣わされますが、これは外に放り出された上に、殺されます。ところが、イエスはこれについて「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と言います。

わたしたちも人をひどい目にあわせました。たたきのめしたり、放りだしたりしてきました。それでも、自分はまったく悪くない、相手が悪いからだとか、自分も悪かったけれども、相手にも非があったとか、とにかく、自分を正当化し防御しようとしてきました。どこまでも自分の身で考えてしまいます。その人の身になって、その人がどれだけ苦しんだか、傷ついたか、自分がどれだけ苦しめたか、傷つけたか、考えていないのです。

わたしたちは自分が暴力をふるったり、斥けたり、無視したりする人から問われています。あなたはどこにいるのか、あなたは何をしているのかと。わたしたちが捨てた石が「隅の親石」、家を支える中心になるとは、まさに、このように問われることではないでしょうか。

あなたは何をしているのかと問われることは、わたしたちが「知らされる」、やわらかくいえば、「学ぶ」ことでもあります。わたしたちは自分が傷つける相手から、自分が相手にとって暴力的な者であることを学び、また、相手は傷つきやすく、深く傷ついていることを学ぶのです。

わたしたちは今自分が苦しめている相手や、目の前で苦しんでいる人々から、自分とその人々との、さらには、自分と神とのこれまでの関係を打ち砕かれ、あらたなものを築くように促されているのです。そのあらたなものが、わたしたちの生を支える柱となると考えます。