若松英輔さんの「日本人にとってキリスト教とは何か: 遠藤周作『深い河』から考える」を読み、ついで「深い河」そのものを読み、もう少し何かを読みたいと思っていたところ、本書を見つけた。
「深い河」がじつに深く解き明かされている。遠藤の生涯や諸作品が随所で自在に参照されている。
ここでは、「転生」と「深い河」について触れることにする。
「転生した妻の居場所を探し求めていた磯辺の旅・・・それは他のどこでもない、磯辺のなかにこそ転生しているのだ」(p.60)。
「この旅を終えた磯辺は、妻の生前以上に自分の中に生きる妻の愛を深く感じ、妻と強く結ばれていることをかみしめてその心に生きる妻と共に人生を生けることになろう」(p.61)。
ここで言う「転生」は誰か別の人に生まれ変わることではなく、その人が地上の生を越えて、かつ、地上の生で結ばれていた人とともに生き続けることである。
これは、キリスト教の言葉で言えば「復活」である。
「大津は、転生を信じるのかという美津子の質問にたいして、玉ねぎは弟子たちに裏切られても彼等を愛し続け、だからこそ玉ねぎを見捨てて生きのびた弟子たちのうしろめたい心に玉ねぎの存在が刻み込まれ、玉ねぎは死んでも彼等の心のなかに生きつづけ、彼等のなかに転生したのと答える」(p.136)。
ここで「玉ねぎ」はイエス・キリストを指す。イエス・キリストの復活はこういうことであり、それを「深い河」では「転生」という語をあてていたのだ。
「転生」の意味はさらに深められる。
「この小説『深い河』では、この苦しみの世界に死んで再びこの世に生れてくるという場合に普通に用いられる『転生』という語を、この苦しみの世界に死んで苦しみや悲しみから解き放たれ、浄化されて永遠の次元に生まれるという独自の意味で使われている。すなわち、『転生』という言葉を、大津の場合はキリスト教の信仰から復活と重ねて、木口のばあいは仏教、特に浄土教の信仰から浄土への往来と重ねて用いているといえるのであり」(p.197)。
ここで言われている「永遠の次元」こそが「深い河」であり、転生とは「深い河」に生まれることになる。「永遠の次元」という語を介して、「転生」は「深い河」とつながる。
「『深い河』とは、私たちのいのちの最も深いところにあって私たちを母のように深い愛で包んで流れる大きないのちの河であり、そして私たちが意識の深みの無意識の領域よりさらに深い魂の次元で『神よ』と呼びかけることの河である」(p.206)。
「永遠の次元」は死後のことに留まらない。いのちの深奥、世界の奥深くにある泉のことでもある。
「自分たち夫婦の人生を包みこんできた大きないのちの母なる『深い河』が自分のなかの最も深いところにある」(p.212)。
死んだ妻は他人として転生するのではなく、「深い河」で夫と生きつづけるのだ。
最後に、副題にある「宮澤賢治と響きあう世界」とはどういう世界だろうか。
「銀河鉄道」の銀河も河である。いや、銀河鉄道そのものが深い河なのかもしれない。