748 「新約聖書を読む現代」 ・・・ 「新約聖書の時代: アイデンティティを模索するキリスト共同体」(浅野淳博、教文館、2023年)

 じつにおもしろい。とても読みやすい。ぼくは、本は数冊並行読みするのだが、この十日間はこの一冊に集中した。

 

 紀元30年ごろ、イエスが「神の国」運動をなした。それに何らかの意味でつながる、ユダヤギリシャ諸王朝、ローマ帝国の歴史。イエスの運動の歩みと思想。それを引き継ぐパウロの道のり。

 

 けれども、歴史は書きっぱなしにされない。各章ごとに「歴史を学んだ私たちは、その歴史から学ぼう」という定型句で始まる、「新約聖書の時代から学ぶ」という項目があり、これがまたすごくよい。

 

 たとえば、「ローマ属州というシステムが帝国の維持を目的とする装置であって、けっして属州民の安寧な暮らしを維持することを目的とする体制でないことを痛感した・・・私たちは・・・沖縄県民の民意を繰り返し無視しつつ辺野古基地建設が進められている様子を目の当たりにしている。この基地計画は、為政者が国民を守るのではなくむしろ国家[と日米安保]を守る姿勢を暴露している」(p.186)とある。

 

 そもそも、「軍靴の遠響が日ごと強く寄せるなか、過去から学んで未来を切り拓くことが大切だとの思いが」(p.3)本書を書かせたと冒頭に明記されている。

 

 本書のすばらしさを示す個所をいくつか引いてみよう。

 

 「イエスと最初期のキリスト共同体の活動には社会的大義があった。それは当時の社会構造に組み込まれた不正、またその構造にこびりついた欺瞞に対して、独自の価値観――弱者救済や愛敵や非暴力――を体現することによって抵抗するという、体制批判的な大義だった」(p.26)。

 

 「民衆の多くが限りなく周縁へと追いやられるこの時代の要請に応答するように、イエスとキリスト共同体の活動が開始した・・・周縁者の声なき声がキリスト共同体の活動に動機を与え、その存在意義ともなったのだ。困窮者の救済という大義が、キリスト共同体のアイデンティティを形成する一要因となっていた」(p.148)。

 

 ぼくはこの言葉に共感するし、安心する。これらの言葉には、ぼくがずっと聞いてきた響きの安心感と、それがあらためて呼び起こされる新鮮さが同居している。

 

 けれども、ここにはさらなる奥行きがある。

 

「もっとも彼の運動はたんなる社会的救済活動ではなかった。むしろその活動は、じつに神の統治がやがてこの地上で完成する時の前哨戦、つまり神の国の到来の前触れを提示することである」(p.205)。

 

 しかし、この「前触れ」は「いつか」ではなく「今この時」という前触れなのだ。

 

 「イエスは、神の国の新たな価値観を宣伝するのみならず、これを今この時に実践せずにはいられなかった。イエスが言葉を発したその時に、救済の業を行ったその場で、神の国が即座に広がりを見せ始めることになる」(p.206)。

 

 ということは、辺野古基地建設に反対する現代の民は、ある意味、新約聖書の時代の「神の国」運動の民に連なっているのではなかろうか。

 

 イエス神の国運動の仲間を募った。「このリクルートのための有効な手段の一つがたとえ話である。じつに福音書に多く見られるたとえ話の四分の一は神の国を主題としている」(p.216)。なるほど。イエス神の国を宣べることは、仲間を作ることでもあったのだ。

 

 一時期、と言っても、数十年前か、パウロはイエスの思想を骨抜きにした、というようなことが言われたらしいが、じつは、パウロはイエス神の国運動をパウロ流で継承していた。

 

 「パウロはある意味で、共同体アイデンティティの根拠となり得る民族性、階級意識、そしてジェンダーを越えた、キリストを中心とする新たな共同体アイデンティティの創出を試みていたのだ」(p.348)。

 

 「パウロは特権階級意識が強いキリスト者によって分裂の危機に見舞われたコリント教会に対して、イエスが極貧の人々に仕えた生き様の延長にあって十字架に付けられたという奉仕の姿を強調しつつ、そのような謙遜の姿に倣って共同体の一致を実現するように勧告している」(p.353)。

 

 イエスパウロの共同体アイデンティティローマ帝国イデオロギーとは正反対だ。

 

 パックス・ロマーナ(ローマの平和)などという言葉があった。これも、帝国イデオロギーだ。「帝国神学が平和の名の下に他者を支配するとき、キリスト信仰は平和の名の下に他者の受容に努めた」(p.379)。

 

 著者は現代と「新約聖書の時代」の双方を注視して、こう結ぶ。

 

 「キリスト教会が人権意識と越境性においていつも時代に先んじて、その感性をアップデートしているかを、キリスト教の真価を問う計りとすべきだろう」(p.380)。

 

 聖書にもキリスト教の歴史にも、差別、排他性が満ちていることを著者は当然弁えている。しかし、現代社会の人権侵害と立ち向かおうとするなら、新約聖書の共同体の反省すべき点だけでなく、そこに共存していた人権意識と越境性に光を当てることが必要だろう。

 現代社会を見る目が新約聖書の時代を見る目を養い、新約聖書の歴史からの学びが現代社会を未来へと促す。

 

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