登場人物のひとり大津は、「日本人の心にあう基督教を考えたいんです」と言いますが、これは、遠藤周作さん自身も同じようなことを言っています。けれども、ふたりは、キリスト教を日本人向けにしたのではなく、むしろ、世界のどんな人間にも通じるものをキリスト教から絞り出したのではないでしょうか。
「あの樹が言ったの。命は決して消えないって」
「わたくし……必ず……生まれ変わるから、この世界の何処かに。探して……わたくしを見つけて……約束よ、約束よ」
「玉ねぎ(神、あるいはイエスのこと=引用者注)はある場所で棄てられたぼくをいつの間にか別の場所で生かしてくれました」
「玉ねぎは彼らの心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」
「玉ねぎは今、あなたの前にいるこのぼくのなかにも生きているんですから」
「あの方(イエスのこと=引用者注)はエルサレムで刑にあった後、色々な国を放浪しておられるのです。今でさえも。色々な国、ですが。たとえば印度、ベトナム、中国、韓国、台湾」
「少なくとも奥さまは磯部さんのなかに」「確かに転生していらっしゃいます」
「彼(イエスのこと=引用者注)は他の人間のなかに転生した。二千年ちかい歳月の後も、今の修道女たちのなかに転生し、大津の中に転生した」
これらの言葉は、新約聖書がイエスの復活と語っていることを、あるいは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という一節を、さらには、他の宗教が転生と語ることを、どんな宗教の人にも、あるいは、宗教を持たない人にも、伝えようとしているのではないでしょうか。
神についても、本書ではおなじ試みがなされています。
「それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」
インドのその河は、誰をも何をも、すべてを受け入れます。
「ぼくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです」
「おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」
「日本人にとってキリスト教とは何か: 遠藤周作『深い河』から考える」という本で、若松英輔さんが遠藤周作さんを読み解いていますが、ぎゃくに、「深い河」では遠藤さんが若松さんを語っているようにも思えます。「深い河」は小説であり、若松さんの名前は出てきませんし、若松さんの出版活動が始まるずっと前の作品なのですが。