題名にあるとおり、この本では、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を若松英輔さんと一緒に読むことができます。
センス・オブ・ワンダーとは何でしょうか。不思議を感じること、驚きの感覚、でしょうか。
若松さんはレイチェル・カーソンさんをこの本ではレイチェルと呼んでいますが、レイチェルによれば、それは、「神秘さや不思議さに目を見はる感性」(p.99)です。
けれども、それは、自然の神秘、動植物の神秘と一般に呼ばれるものより、もっと深いものでありましょう。
「『センス・オブ・ワンダー』という書名にも「いのちへの畏敬」に通じる扉が潜んでいます」
「ここでいう「いのち」は、身体的生命と同じではありません。むしろ、それを包んでいるものだといえるのかもしれません。あるいは、人と人、あるいは人と世界をつないでいるものでもある」
「自分を生かし、他者を生かし、そしてこの世界そのものを生かしている「いのち」に対して、どういう気持ちをもって向き合うことができるのか」(p.24)。
若松さんは、ワンダーを「いのち」、ここで言われている意味での「いのち」と翻訳しているのではないでしょうか。ならば、センスは「畏敬」と訳されるとも思われますが、あるいは、他の言葉があてられるのかも知れません。
上の引用には「人と人」「自分」「他者」と言う言葉が出てきましたが、本書の巻末に近いところにも、こうあります。
「「自分」とは「おのずから」「分かたれて」いくもの、「おのずから」開かれていく存在であることを、この文字そのものが語っているのです」(p.108)。
この意味での「自分」も「いのち」にかなり近い言葉ではないでしょうか。
「「センス・オブ・ワンダー」は、私たちの生活と人生を根底から支えているはたらきでもあります。ふれるもの、出会うもの、心に宿るものに「よろこび」と「驚き」、そして、「美」を感じる源泉なのです」(p.28).
「私たちの生活と人生を根底から支えているはたらき」とは何でしょうか。信仰者なら、それは神だ、と答えるかもしれません。はんたいに、神とは「私たちの生活と人生を根底から支えているはたらき」と言うこともできるかもしれません。
しかし、それは、信じる/信じないの対象としての神、助けてくれるか助けてくれないかによって評価される神ではないように思われます。
「むしろ、レイチェルが語ろうとしているのは、万物と「いのち」の次元で「つながる」ことのように思われます。そのとき人は、「いのち」の深みにふれるとともに、世にただ一人の「わたし」の深みにもふれるのです」(p.48)。
「いのち」の深み、「わたし」の深み、この不思議な言葉の意味は、いったい何なのでしょうか。まさに、I wonder です。
「「センス・オブ・ワンダー」は、大きな喜びの経験であり、人間を超えた神々と共にあり、沈黙を強いる出来事でもあり、哲学的現象でもある、つまり、わたしたちを深い感動と思索に導くものである」(p.47)。
「深い感動」とは「深み」にふれた感動であり、「深い思索」とは「深み」への憧憬、「いのち」への思慕でありましょう。「深み」のいちばん底は予感されますが、足は届きません。だから、「秘儀」なのです。
若松英輔さんならRachelのThe Sense of Wonderを「いのちの秘儀」と訳すのかも知れないなと想像しました。