若松英輔さんの「深い河」の批評本をきっかけに、「深い河」、「女の一生 一部・キクの場合」、そして、「女の一生 二部・サチ子の場合」と、この秋、遠藤周作さんを続けて読みました。他の小説も、残りの人生で、できるだけ追いたいと思います。
本書には、三人のカトリック信者の信仰が描かれています。
アウシュビッツで「神父さん。俺は天国は信じんが、地獄のほうは信じるぜ。この収容所が地獄だ」と問いかけられ、コルベ神父は答えます。「まだここは地獄じゃない。地獄とは……ヘンリック、愛がまったくなくなってしまった場所だよ。しかしここには愛はまだなくなっていない」(p.190)。神父が地獄で示した愛は現実の世界で今日も語り継がれています。
今の時代も、わたしたちは個人史においても地獄を味わうことがありますが、地獄に対して、地獄ではなく愛で答えれば、そこは地獄でなくなるのではないでしょうか。
「自分の食べ物を削っても、彼に食べさせたいと今は彼女は思うようになっていた」(p.440)。サチ子は、過酷な訓練を受けている、愛する周平と同じような苦しみを味わいたいと願います。かつてコルベ神父からもらった御絵には「人、その友のために死す。これより大いなる愛はなし」とありました。死ぬとは、心臓が動かなくなることですが、魂もまた押しつぶされ動かなくなることがあります。サチ子はそれを受け入れる準備があったのではないでしょうか。
「本当の恋は誰にでもできない。今の時代、恋はたやすくなり、たやすくできる行為になってしまった。しかし、恋がどんな困難なものかをサチ子は身をもって知っていた」(p.565)。
この恋は、欲しいものを求めるところから始まっても、相手に与えることに変わっていく、いや、そうならざるを得なかった恋でありましょう。コルベ神父の御絵はそれを占っていたのでしょうか。あるいは、促したのでしょうか。
「神さま、わたしは普通の主婦です。日本のどこにでもいる平凡な、普通の主婦です。しかし、そんな平凡な主婦のわたしの人生にも、神さま、あなたはたくさんのものを与えてくださいました。家庭を持つ倖せ、子供を持つ楽しさ、そして、本当の恋もしました。倖せや悦びだけではなく、戦争や大切に大切にしていたものを失う苦痛と悲しみもくださいました。コルベ神父さまのような聖者にも会わせてくださいました。苦痛と悲しみとは神さま、わたしにあなたの本当の御心を疑わせたこともありましたが、その疑いがかえってあなたを今でも求めさせます。あなたがくださった宿題はあまりにも多すぎますけれど、有難うございました」(p.568)。
遠藤は、普通でも平凡でも主婦でもないですが、それ以外は、これは遠藤自身の信仰告白でもありましょう。しかし、それは、遠藤が、「普通で平凡な主婦」に見出した光でもありましょう。
修平は言います。「殺すなかれ、と言われてきたとです。それが兵隊にとられたら……敵ば殺さんばいかん。ぼくは教会がそいばどげん考えとるとか、わからんとです」(p.195)。「基督教の教会は戦争ば、どげんごと考えとるとでしょう」(p.196)。
これは、遠藤や修平が属したカトリック教会だけでなく、戦後のプロテスタント教会でも大きく問われてきたことです。さらには、すべての人間に問われていることでしょう。
「戦争に行き、人を殺さねばならぬ自分をどう処理していいかということだった。ひとつは基督教の信者として――もうひとつは文学や詩を学んできた人間として――」(p.377)。
遠藤も修平もカトリックであり慶応文学部であり、信者としての問いは文学をなす者の問いでもあります。
さらに言えば、人は皆、人を殺してよいのか、戦争であれば人を殺してよいのか、と問われているのではないでしょうか。この問いは信仰を持つ者にも持たない者にも共通の、深奥の問いであり、それを、宗教的、あるいは、信仰的、霊的問いと呼ぶのではないでしょうか。