「貧者を愛する者」とは、愛の深い信仰者のことではなく、司教たちのことです。つまり、「政治家は有権者の意見を代弁する」というのが実態とは関係のない理念であるように、司教には貧者を愛する者という理念が付されたのです。
しかも、貧者とは経済的な貧困者とは限られません。
「貧者は、大いなる者に対して要求する権利を持つ人のことだったのです。イスラエルの貧者の場合と同様、司教の法廷を使い司教の教会に出席した人々は、困窮の時に正義と庇護を求めて司教に対して訴えることを、当然のごとく期待しました」(p.127)。
これを司教の側から言いますと、こうなります。
「司教たちにとって、貧者の存在は、古典期以降の新しい社会における自分たちの役割に光を当てる格好の機会を提供するものだったのです」(p.29)。
パレスチナからローマ帝国各地に伝わったキリスト教はどのような教えをし、人々の精神にどのような影響を与えたのか、を知りたかったのですが、この本は、キリスト教の普及に伴い、貧者を愛する人びとが増えた、というお話ではなく、むしろ、社会の中で、キリスト教の概念がどのように用いられたか、という社会史的観察でした。
そういうわけで、気を取り直して、田川建三先生の「キリスト教思想への招待」の古本を購入したのですが、これが、どうも、ぼくが貧しくて売ったもののような気がします。ラインマーカーの引き方などがどうもぼくっぽいのです。