この本は「死とは何か」という問題の「正解」を述べているのではありません。むしろ、わたしたちにはそれはできないということを伝えているのです。
「なぜ、生きている人が死んでいることについて語ることができるのだろうか。なぜそれが本当のことだとわかるのだろうか・・・生きている限りの我々誰にも、死のことは絶対にわからないのである」(p.12)。
ぼくたちは誰かの死に方や屍は見たことはありますが、死んでいるその人が今どういうことになっているのかは見たことがありません。同様に、ぼくたち自身の死に方や屍を想像することはできても、死んだぼくたちがどういうことになるのかは、わかりようがないのです。
「絶対無、何もない、死ねば無になる、それが恐いと人は言う。しかし、考えることのできない「無」を、なぜ恐れることができるのか」(p.31)。
死んだらどうなるのか、ぼくたちにはわかりません。死んだら「無」になるのでしょうか。そうすると、それを恐れるぼくたちもいないのですから、つまり、「無」を恐れるぼくたちも「無」なのですから、恐れも「無」なのではないでしょうか。
「死は、無いものだから、無いのである。」(p.129)。
死が「無」であれば、死は「無い」、死は「存在しない」ということになるのです。
「現代人の九分九厘は、「自分」とは脳のことだと思っている・・・もしも自分とはこの脳であるとして、じゃあ、この脳が自分であると、どうして自分にはわかるのだろうか」(p.134)。
ぼくたちは、何かを脳で考えながら、考えるという作業をしている自分のことも考えることができます。そうすると、何かを考えていた脳が死んでしまえば、その脳の作業のことを考えていた自分も死んでしまうのでしょうか。
「一人称の死・・・これはよく考えると・・・経験できないものです・・・死が存在するときに私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない・・・死が存在していないということは、死は無いということ、一人称の死は存在しない」(p.231)。
ようするに、「ああ、わたしは今死んでいるのだな」ということはないということです。たとえ、肉体の死後であっても、もし「ああ、わたしは今死んでいるのだな」という事態になれば、それは、無ではないし、死でもないのでしょう。
「記憶のうちで語りかけたりとか・・・二人称の人は、我々にとって死んだ人になかなかならないのです。ですから、ある意味で二人称の死というものは存在しないし、二人称の人はいつまでも生きている」(p.232)。
これについて、著者は体験を述べています。
「なるほど私の愛犬は死んだけれども、いなくなったわけではない。ごく当たり前に、私はそう感じるようになっている。生と死とは、ゼロと1が違うように違うのでは、じつはない。星雲や銀河が生成消滅を繰り返すのが、この宇宙のありようであるように、現象には断絶はなく、移行があるだけなのである・・・老いて破れた犬の衣を脱ぎ捨てた彼とは、すなわち、魂であろう。どうしてか存在する宇宙で、どうしてか出会えたように、いつかまた出会えると思えるということは、素晴らしいことではないか」(p.75)。
「死は無(になること)」とは、ふつうは、「死とはその生命が存在しなくなること」を意味します。けれども、著者は、ここに、「死は無い」ということを見出したのではないでしょうか。