いくつものおもしろい詩が紹介され、それへのおもしろいコメントが記されている。
たとえば、
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(久保田万太郎)
「俳句は離れたもの同士を結んで感興を得る。人事と天象とか、生活の具体的一面と心の底の思いとか、ともかく二つの要素が並置される」(p.59)。
俳句だけでなく詩がそうであり、文学がそうであり、ときには、科学文章もそうなのかもしれない。ぼくも、毎週数千字を記すが、いのちを湯豆腐に、愛をおでんに結ぶように書くと、読み手につたわりやすいのかもしれない。
「訓読や返り点などの仕掛けを漢字に施すという工夫がなされる前だって、読者は漢詩の情緒を頭の中で母語に移して、味わっていたはずだ。母語にしか感情の拠点はないのだから」(p.107)。
そうだろうか。♪くすしきみ恵み われを救い♪に慣れ親しんでいても、♪Amazing Grace, how sweet the sound!♪という響きの方が、オリジナルゆえにか、異国情緒ゆえにか、心にすわり、感情の土台になりやすいのではなかろうか。
あれを読んだか
これを読んだかと
さんざん無学にされてしまった揚句
ぼくはその人にいった
しかしヴァレリーさんでも
ぼくのなんぞ
読んでない筈だ
(山之口獏)
「もう抱腹絶倒、こんな強引な切り返しがあるかとほとほと感心する」(p.161)。
抱腹絶倒以前に、ぼくは痛快だ。カール・マルクスさんだって、カール・バルトさんだって、ぼくのなんぞ読んでいない筈だ!
「「誰がために鐘は鳴る」・・・ヘミングウェイが長編のタイトルに使ったことで広まったけれど、ジョン・ダンの・・・・詩の一節である・・・すべての人はつながっている。だから弔鐘を聞いても人をやって誰の葬式の鐘かと聞いてはいけない。それはお前のための鐘なのだ。という意味」(p.164)。
そうだったのだ! この鐘は弔いであるとも、ぼくのためとも、まったく知らなかった。ところで、ジョン・ダンは、イギリス聖公会の司祭だった、と著者は言う。
そして、こう推測する。「言葉の才の人だから説教の達人だったのだろう。聖職者は顔がよく、頭がよく、声がいいと出世する」(p.169)。
ぼくは「聖」ではないが、教会の牧師だ。出世はしないまま、十年以内には引退だろう。言葉も説教も平凡で、顔も頭も悪いせいなのだな(微笑)。
教会へ通って安息日を守る人がいます
わたくしは守ります、家にいて
神さまが説教します、有名な牧師さまです
ご法話はけっして長くありません
(エミリ・ディキンソン)
エミリは教会には行かない、家で神さまから直接説教を聞く、神さまこそがエミリの牧師だ、説教は長くない、ということらしい。
「これはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章でイワンに論じさせたことでもある。わかりやすい信仰の形が大衆には必要。だから信仰告白が重視される。イエスを経由しての神との垂直の関係よりも告白を共有する信徒同士の横の連帯の方が前に出てくる。政治権力を形成する」(p.226)。
牧師を経由しての神との垂直の関係よりも、イエスが示した人間同士の横の連帯の方が大切だ。あるいは、イエスが示した神との水平の関係よりも信仰告白を枷とする牧師・信徒間の縦の支配の方が前面に出ている。それこそが政治権力だ。エミリの詩はその天地を引き裂く稲妻だ。